お好きなものを
僕はひとつのことを思い出そうとここに入所して1週間が過ぎた。

インコース低めの打ち方だ。

『禅ビル』…僕らはそう呼んでいる。
街の中心からやや外れた5階建ての古いビルで、一部のプロ・アスリートたちが利用する。
僕は、あるプロ野球球団の3番バッターだ。昨シーズンの終了間際、極度の不振に陥りそのままシーズンを終えた。原因は、分かっている。
インコース低めの球をすくい上げて打ち返すフォームを忘れたのだ。

もっとも得意なコースだったはずのものが狂うと、すべてがバラバラになる。

そして、すべてがバラバラなままオフシーズンに入った。
それを思い出すために、ここにいる。

『禅ビル』の外見はいたって平凡だ。しかし、その中に入るといささか様相は変わる。徹底的に無音状態に近づけているのだ。防音はもちろん、特殊な吸音材が壁一面に吹き付けられていて、あらゆる音が瞬時に吸い込まれる。足音ひとつとっても、ここで聴くそれは異質なものだ。音の芯の部分だけが聴こえ、それを取り巻く反響音がないからだとのこと。そんな空間で、僕らは忘れたフォームなどをひとつひとつ組みなおしていく。
今朝、退所したボクサーは、左ジャブから右フックのコンビネーションで使う、背筋にかかる緊張状態が左から右へ流れ移るポイントのようなものを思い出すためにここにやってきた。そして、すっきりした表情で1ヵ月後に控えたタイトル戦へ向かった。

ここはそんな場所だ。


さて、僕のインコース低めを打ち返すイメージを書き抜いてみる。

ピッチャーの指先からボールが離れるほんの少し前に、バットを持った左手のグリップを内側に軽くしぼる。
ボールの軌道を腰の左前方から巻き込むイメージで眼で追う。
左足をいつもどおりのオープンスタンス気味にステップを踏みだす。ただし、つま先の方向だけは開かず、膝から上の筋肉と腰の筋肉を結ぶラインに緊張を持たせる。その際、まだ腰の回転を始めてはいけない。つまり、上半身は残したまま、下半身だけを巻き上げるのだ。
ここまでの動作を終えた時点で、ボールは約3分の2進んでいるはずだ。
手首を固定したまま、バットの移動を始める。
左腕を前方に少しだけ移動させた後、肘を支点に最短距離でボールに到達するようにバットを回転していく。
この動きはごくわずかであるべきだ。本格的なバットの軌道は、上半身の回転がスタートした後に描かれることになる。
つまり、あくまで回転させるのであって、振ってはいけない。
回転を始めてすぐ、ねじった状態にある下半身に上半身が追いつくように委ねていくわけだが、その際、腹部を意識するとほんの少し前のめりになることがあるので、背中に集中して脊柱と左足の大腿骨が真っ直ぐ結ばれるように上半身を回転させる。
上半身の回転が、5分の2程度終えたら、本格的にバットをボールに向かって振り始める。
インコース低めの球は、身体を開いた状態でややおっつけ気味にバットを持っていくのがポイントだ。
振り始めてしばらくは手首から先だけ残す。そして、上半身の運動が半分を超えたあたりから、遅れた手首を上腕部の動きに追いつかせる。
そうすると硬いバットがしなるような感覚を覚える。
そして、手首、腕、腰がかっちりはまるべきポイントにはまったら、その3点を結んだラインにエネルギーを流し込む。
打ち返すボールの軌道が高い放物線を描きたい場合は、バットにボールを乗せ、バットのしなりを利用して前方に運び出すイメージ。
ゴロやライナー性の当たりを狙う場合は、ボールを日本刀で真っ二つに斬るイメージ。
大きく分けると、このふたつを使いわけるのだが、どちらもボールがバットに当たるインパクトの瞬間、ほんのごくわずかだけ肘から先を前方に移動させる。
そうすることにより、もともとイメージしていたインパクトのタイミングよりも、2センチ程度前でボールを捉えることが出来る。
このようにする理由もちゃんとある。
ボールがバットに当たり、バットがその力を吸収し、蓄えたエネルギーをボールに与えて、そのボールが打ち返されるまでの時間は、瞬時でなく意外と長い。
ボールがバットに当たる瞬間に向けてバットを振りはじめたはずだ。つまり、そのまま動作を続けると、バットにボールが当たった瞬間に最大のエネルギーをバットの芯に伝えることになる。
当たった瞬間が最大のエネルギー供与ポイントだとすると、、その後バットからボールが離れるときにはそのエネルギーはかなり減っているはずだ。
バットにボールが当たる瞬間に大切なのは、そのエネルギーの大きさではなく、ボールの芯とバットの芯の位置関係だ。バットの芯をボールの中央から5ミリ程度下に持ってくることが大切なのだ。
エネルギーの大きさが問題になるのは、その後なのだ。
だから、バットがボールを捉えたそのときでなく、ボールのエネルギーを吸収しきった後に最大のエネルギーが供給出来るように、インパクトのポイントを予定していた位置より少し前にずらす。
そうすると、最大のエネルギーをボールに伝えるタイミングは、その分だけ遅れてやってくる。
あとは、バットを背中に巻きつけるように身体全体で振りぬく。
そうすれば、必ずボールは燕のように空間を移動してくれる。

この一連のイメージを音のない203号室で、一日何百、何千と頭の中で繰り返す。
今日で4日目。
全体の60パーセントくらいは、それぞれのイメージがスムーズに繋がってきた。
しかし、「ボールがバットに当たるインパクトの瞬間、ほんのごくわずかだけ肘から先を前方に移動させる。」
ここがどうもうまくいかない。
肘から先だけでなく、上半身全体で動いてしまうのだ、頭の中で。
打つ瞬間に上半身がぶれると、ポップフライに終わってしまう。

窓の向こうは今日も雨。

ゆっくりゆっくりやればいい。

ピッチャーはいつものあいつだ。

ゆっくり振りかぶって、インコース低めをついてくる。

ハイビジョン映像をごくごくゆっくりのスローモーションで回したときのように、ボールが僕に向かってくる。

眼を閉じたままの僕の頭の中では、左手のグリップを握り締めた自分がスタートした。



お好きなものを
海暮れて鴨の声ほのかに白し
(うみくれて かものこえ ほのかにしろし)
松尾芭蕉


久々の連休だ。それも3連休。このぽかりと空いた3日間を何をして過ごそう。
まずは、恋人のサコに連絡してみた。「急なんだけど、仕事を休めたりしない?」「え?どういうこと?」「実は明日から3日間の休暇をもらったんだ。」「へぇ珍しいこと。ちょっと待って。スケジュールを確認してみる。」彼女は受話器を置く。受話器から遠ざかり、ドアを開け、そして小走りで近づいてくる彼女の足音が聴こえてくる。多分、素足だ。僕は、缶ビールのプルタブを開けた。僕らは、出会いってから5年になる。僕はイベントのプランナー兼ディレクターを、彼女はMC業を生業としている。お互い、フリーランスなので土日に休めることは少ない。そのかわり平日に休んでいるかというとそうでもない。1ヶ月間無休のこともあれば、1週間仕事をせずに過ごすこともある。そして、二人の仕事が同時に休みになることは滅多にない。5年間で16回だ。彼女のスケジュール帳にグリーンで記された回数。
「ごめん。仕事はなんとかなるんだけど、ちょっと無理そう。」
「そうか。急だもんね。」
「明後日、釜入れなの。2日間眠らずに火の番よ。」
「そうなんだ。1年に2回だけのイベントだったね。」
「そう。今回は、はじめて花器に挑戦したのよ。それも巨大なやつ。あなたでも持ち上げられないと思うわ。」
「花を活けるのか。」
「うまく焼けたらね。実家にある桃の木と山々の木々を組みあわせてみたいの。」
「うん、それはいい。」
「そのときは手伝ってね。大きなリュックサックを二人で背負って山に入り、探検よ。」
「了解。」
「ところで、わたしが休みだったら何をする予定だったの?」
「大阪に行ってみようと思ってた。」
「どうして?」
「出会って間もない頃に二人で行った店で明石焼きを食べようかなと。」
「また三日三晩?」
「そう三日三晩。」
「裸電球ひとつの屋台。」
「そう、あの屋台で。あの明石焼きはあそこでしか食べられない。」
「寒さに耐えながら。」
「そう、5年前と同じように寒い寒いと言いながら。つゆを飲み干したら、おかわりしてね。」
「いいわね。心が揺れている。行きたい。」
「だめだよ。サコは窯に行きなさい。」
「ひどい。」
「ひどくない。サコには窯がある。今の僕には何もない。」
「一人で行く?」
「うーん。どうしようか迷っている。」
「じゃあ、わたしから素敵な提案。」
「ん?」
「フェリーで行くといいわよ。」
「フェリー。」
「そうフェリーで行くの。わたしは、高校を卒業するまで大阪に住んでいたでしょ。父親の実家がある小倉に来るときは、いつもフェリーだったわ。」
「ふむふむ。」
「運がよければ、不思議な音を聴くことができるのよ。」
「どんな?」
「うまく説明できないけど、細く透きとおった音。真っ暗闇の海のどこからか聴こえてくるの。かなり集中して聞かないと聞こえないくらい小さな音。振動と言ったほうがいいかも。」
「振動か。それは、おもしろそうだね。」
「おもしろいかどうかは微妙だけど、あなたはきっとおもしろいと思ってくれると思う。ただ、いつも聴こえるわけではないから、聴けなかったからといって恨みっこなしにしてね。」
「もちろん、恨んだりしないよ。それで、聴ける確立はどれくらいなのか。」
「そうね。わたしの場合で30パーセントくらいかな。それ以下かも。」
「この寒い時期、フェリーの甲板で夜中の間じゅう一人で耳をすませて待つ...聴こえないかもしれない不思議な音のために。なんだか、過酷だね。」
「そう過酷よ。でも、それだけの価値があるのよ。少なくともわたしにとってはそういう音。」
「音そのものが好きな僕にとって、魅惑的な話だな。行ってみようかな、フェリーで。だけど、その細く透きとおった音の正体は何なんだろう?」
「それが正体不明なの。家族と一緒に聞こうとしたことがあるんだけど、わたしに聴こえても他の誰も聴こえないって言うし。だから、フェリーの船長さんのような人に聞いたことあるの。」
「ほうほう。」
「船長さんが言うには、そのことを尋ねてきたのは私で4人目らしいの。フェリーの仕事に就いて25年と言ってたから、膨大な乗客の中での4人ということはかなりの貴重な体験よ。そういう風に言ってもらった時は、なんだか誇らしい気分になったわね。そして、その船長さんもその音を聴いたことがないんですって。でも、その音は、その近辺を運行する船乗りの間では有名だとも言ってたわ。滅多に聴けることのない音なんだけど、船乗りさんたちの中にも聴いたことがある人がいるんだって。」
「じゃあ、確実に存在する音なんだね。」
「多分ね。それで、船乗りさんたちの間では、“スウィート・ストーム”って呼ばれているらしいの。」
「“スウィート・ストーム”…なんだか、かっこいい呼び名だね。」
「そうね。スウィート・ストーム…直訳すると“甘美な嵐”。船乗りさんたちとしては、船の航行中に起きるイレギュラーの出来事は、なるべく避けたいと思うらしいの。当然よね、海の怖さを一番知っている人たちだから。“スウィート・ストーム”のようななくても全然困らない正体不明の音なんて気味が悪いだけだもの。だけど、不思議なその音は、一度聴くと何度も聴きたくなる。心地よいイレギュラーなの。それで“スウィート・ストーム(甘美な嵐)”と呼ばれるようになったらしいのよ。」
「ふむふむ。なんかワクワクしてくる話だね。決めた。行ってくる。」
「いってらっしゃい。“スウィート・ストーム”に出会えるといいわね。正体が分かったら教えてね。」
僕らは、それからとりとめのない話を5分くらいしてからお互いの時間に戻った。
“スウィート・ストーム”を聴くことができるだろうか。聴いてみたい。
インターネットを使って調べてみると、フェリーは今晩出発の便があった。あと、2時間だ。まずはシャワーにかかろう。バスタブに腰を下ろし、シャワーの温度を調節してから頭を垂れた自分の後頭部に向かってお湯が当たるように固定した。そして、そのまま12月の洋上、息を殺してじっと待つ自分を想像してみた。
 シャワーから出るお湯は、僕の頬を伝い排水溝に吸い込まれていく。その行き先は、もしかすると僕と同じかもしれない。


041208


この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

僕は土砂降りの雨の中を一人走っている。かれこれ1時間は走っているはずだ。不思議と息は切れない。銀色のナイキのスニーカーは、水と泥を吸ってそれはまるで汚れたギブスのように僕を試すように重くなっていく。

目的地は、この森をぬけたところにある音楽堂だ。森は僕が住むシャッター通りが駅前に鎮座する街のはずれにある。江戸時代にときの権力者を接待するためにつくられ、その後、幕末に開国をよしとしない浪人たちが潜伏、最後に集団割腹をしたという悲哀に彩られた場所だ。小さなな森であるけど、きれいに整備され、真夏になってもそこだけひんやりとしている。タバコを吸うのをためらってしまうような凛とした空気が今も昔もそこにある。
その森では、5年前より毎夏、ロックフェスが開催される。とは言っても、海外から大挙してミュージシャンが来たり、旬のロックバンドがジュークボックスように競演するような大きなものではない。この街出身のオールドプレイヤーたちが帰ってきてライブをするのだ。
昔々、この街の不良たちはこぞってロックンロールで自己主張したそうだ。かわいい女の子を振り向かせるために、彼らはエアコンなんかない山の中腹にあったガレージに入れ替わり立ちかわりギターをかき鳴らし、海の向こうへ吼え続けていたとのこと。
そんな彼らはほどなくして、20年前の日本のロックシーンを切り拓くことになる。そして現在もなお生き様としてロックしている。まさに真のアーティストたちだ。
僕の中学生時代の大半の時間を占有していたのは、まさに彼らの音楽たちだった。
それらは、キラキラしていたしギラギラもしていた。

ここ数年間、僕の頭の大半は、いつもイライラしていた。仕事で良い成績を残しても、きれいな女の子と一緒にベッドに入っても、バイクに乗って時速200キロを超えても。まるで、ヘドロの海につかっているような毎日。
そして3ヶ月前、コンビニで支払いを済ませるように勤め先の会社へ辞表を出した。特に揉めることも慰留されることなく受理され、それからちょうど10日後に10年間勤めた会社に行かなくてよくなった。コンビニはレシートをくれるが、会社がくれたのは10年間分の虚無感だけだった。
『失われた10年』というフレーズをどこかで聞いたか、読んだかした覚えがあるが、僕にとってまさにそういうことだ。
ただ、リセット出来たような気がそのときはした。
帰りに車の中で、中学時代につくった今じゃテープも伸びてノイズだらけのマイ・ベスト・トラックスを繰り返し繰り返し聴いた。うんと遠回りして。

だけど会社を辞めても、イライラ感はつのるばかり。部屋から出ても出なくても、僕は僕自身で変わりなく、僕の問題は何も解決しないことに気づいた。僕の問題は、根が深いのか、それとも根無しなのか。

いつのものように昼前に起きて、まずは1本のタバコに火をつける。11階の僕の部屋にあるただ1箇所の窓を2センチだけ開け、ほんの少し冷たい風を頬に感じ、さて今日はこれから何をしようと漫然と考えていた。
すると、遠くの方から音が聴こえた。聴こえたというより、かすかに鼓膜がふるえた。鋭利なカッターを振り下ろしたときのような芯のある風がこの部屋を通り抜けようとする。風は、ベッド脇の壁を跳ね音をたてた。ヒュッ。
風は、枕元に丸まったまま置かれていたフライヤーをほんの少しだけ震わせ、その頭を起こした。そして、ゆっくりゆっくり元の位置に横たわる。それは、今日から明日にかけて行われるロックフェスのフライヤーだった。
タバコに先で行く先を決めかねていた灰は、ベッドの上を舞い上がりスパンコールのように僕のまわりを舞い降りていく。
そして、もう一発、今度ははっきりと遠くの方からの地鳴りのようなバスドラを音が窓の隙間から僕を打ち抜いた。
耳の奥で捕らえたロックンロールの咆哮は、僕の心にあったさびかけた鍵穴の汚れをブワッと吹き飛ばしてくれたような気がした。
あの山の麓に行かなくてはいけない。行くんだ、今すぐ。

エレベーターを使わず、一気に非常階段を駆け下り外に出た。
暴力的な夏の太陽の日差しで僕は一瞬気を失いそうになる。しかし、真っ白な光の中降る土砂降りの雨が僕を正気に戻してくれた。
バイクのキーを土砂降りの雨に中、ギラギラと輝く太陽に向かって放り投げる。どこまでもどこまでも高く。
僕は3度の屈伸と、大きな背伸びの後、全速で道路のど真ん中を走り始めた。走り始めてすぐに背後にキーが地面に叩きつけられる音がした。
それは、遅れて鳴った号砲だ。僕は、走った。20年ぶりに走った。

森に入ると、バスドラの振動が木々をその根元から揺らし、さらに走ると歪んだギターの音が樹皮を剥ぐ。
それらは僕が何度も何度も聴いたあのカセットテープに入っている曲たちだった。
僕は走る。あの頃に走り方を思い出しながら走る。
走りきった場所にあるステージでは、あのロックスターが唄っているはずだ。


はじまりも終わりもない、僕らにあるのはいつも道半ば

だから満ち足りたことなんか一度もない

あるのは、いつもコップ1杯の水



この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。
走れ、走るんだ。


お好きなものを


いつも何かに包まれていたいんだとあの人は言った。



わたしは、水産加工物を扱う小さな会社のOLをして12年になる。

就職してすぐにはじめた定期預金は、何度か満期を繰り返した。それは、自分の結婚準備金のはずだった

けど、あの人の言ったあの言葉が私を別の方向に導いた。

半ば強制的にとらされる休日の朝、定期預金を解約し、その足で適当な10坪ほどの中古のワンルームマ

ンションを購入した。

わたしは、そこを二人だけの『カプセル』にしようと思った。

壁という壁すべてを取り払い、配管工事もやりなおして、部屋の真ん中にバスタブを配置した。

ただのワンルームマンションをまるっとバスルームにしたのだ。他に無駄なものは一切置かない。

こことは別に会社の寮に契約しているので、日頃はそこで生活する。



取引先の営業マンFと深い関係になったのは、2年前の桜が咲き始める時期だった。

どちらかというと、わたしの方から誘った。

Fは、39歳の妻子持ちでいつも森林系のにおいがするオーデコロンをつけている。

わたしが、Fを意識するようになったのは、F本人よりもそのオーデコロンのにおいが先だ。

そのオーデコロンの正体を知りたくて、Fに尋ねたのがきっかけでほどなくわたしたちは深い関係を持っ

た。

わたしにとって、はじめての恋愛。

Fにとって、はじめての不倫。

月に一度ペースで、食事をしてセックスをする程度の付き合いだったが、包み包まれ、溶けそうだった。

そして寮に帰ってきてもFのつけているオーデコロンはわたしをゆるやかに緊縛してくれていたし

その緊縛は、翌朝の目覚めまで感じることが出来た。

その朝だけは微かな罪悪感を伴うオーガニズムの後、出社の準備をはじめる。

いつもよりも長い時間をかけて髪の毛をブローする。


Fがまとっていたオーデコロンが生産中止になったのを知ったのは、たまたま見たインターネットのホー

ムページだった。そのオーデコロンに含まれる成分の調達が困難になったのが原因らしい。

俗名『テンニョヒダ』という苔の一種で、その苔が絶滅危惧種に認定されたとのこと。

採取不能になった『テンニュヒダ』なしでは作れないとのことで生産が中止されたのだ。

わたしは、すぐにオーデコロンの輸入代理店を探し出し、連絡をして在庫をすべて買い取った。

またそこと取引のある問屋やショップを紹介してもらい、買い占めた。

国内にあるだろう在庫は、1ヵ月半かけてほぼすべて入手した。

Fの驚き、喜ぶ顔を思い描いては、電話をし、メールを送り、購入するための送金をせっせと続けた。

集まったのは、115本。Fにとって、一生分あると思う。われながら、よく集めたものだ。

また、同じ時期に購入したマンションは、バスルームのみのワンルームとなる工事も終えた。



ふたつのことを終えた週末、わたしはFを新しい部屋に招いた。

オーデコロンを集めたことも、部屋をバスタブのみが鎮座するカプセルに改装したことも内緒にして。



Fは来なかった。

かわりに奥さんから、わたしの携帯に電話があった。

「そちらには行きませんので、よろしく。」

グチャッと音をさせて電話は切れた。



わたしは、バスタブにはじめてのお湯を張り、全部のオーデコロンをバスタブの脇に並べた。

Fの好きな麻のセーターを脱ぎ、淡いグリーンの下着もとる。

不思議なもので、部屋の真ん中で脱げばいいものを、脱衣は部屋の端っこでしてしまう。

壁際で脱ぐ習慣は、スペースが広がっても変えられないちっぽけな自分が、少しだけかわいい。

かなり奮発したつもりの、ゆるやかなティアドロップタイプのバスタブに右足からつかり、一度だけ深く

身体を沈めて身体をひるがえす。

バスタブの脇には、整然と並んだ115本のオーデコロンがある。

1本だけ、キャップをはずしてみた。

湯気のくぐもりともに、Fを感じるにおいがわたしを包んだ。

もう1本あけた。

ここにいないFに少しだけ近づけたような気がした。

さらに、新しい瓶…そして、もう1本。

次々にあけていった。バスタブの中にも入れた。垂らすのでなく、ドボドボと。

そして、115本目は頭からかぶってやった。

部屋の中は、湯気が充満し、オーデコロンの粒子がその隙間を埋めていているのが見えた。

その様は、Fと一緒に行ったプラネタリュウムで見たオーロラだ。

そして、そのにおいは何のにおいなのか分からなくなっていた。鼻をつんざく棘を化していた。

そういえば、『テンニョヒダ』ってどんな植物なのだろう。ふわふわしたイメージがする名前だけど…

棘があるのかのしれない。

ポロポロと涙が胸を伝う。

悲しみからなのか。

それとも、この部屋いっぱいのオーデコロンの刺激によるものなのか。

もうすぐ夜が明ける。

カプセルの中のオーロラは、その姿を変貌させながら移動させながら今にも消えてしまいそうだ。

わたしは、一生分のFのにおいを一晩で使い切った。

Fのにおいは、この先わたしから消えることはないだろう。

お好きなものを


わたしは、そこを二人だけの『カプセル』にしたかった。

多分無くなってしまっても世の中的には困らない零細企業のOLをして、せっせと貯めたお金で購入した10坪ほどのワンルームマンション。

壁という壁すべてを取り払い、配管工事もやりなおして、部屋の真ん中にバスタブを配置した。

ただのワンルームマンションをまるっとバスルームにしたのだ。他に無駄なものは一切置かない。

こことは別に会社の寮に契約しているので、日頃はそこで生活している。


取引先の営業マンFと深い関係になったのは、2年前の桜が咲き始める時期だった。どちらかというと、わたしの方から誘った。

Fは、39歳の妻子持ちでいつも森林系のにおいがするオーデコロンをつけている。わたしが、Fを意識するようになったのは、F本人よりもそのオーデコロンのにおいが先だ。そのオーデコロンの正体を知りたくて、Fに尋ねたのがきっかけでほどなくわたしたちは深い関係を持った。

わたしにとって、はじめての恋愛。

Fにとって、はじめての不倫。

月に一度ペースで、食事をしてセックスをする程度の付き合いだったが、わたしにとって、その時間だけは、ほかのどんな時間よりも甘く濃厚だった。


Fがまとっていたオーデコロンが生産中止になったのを知ったのは、たまたま見たインターネットのホームページだった。そのオーデコロンに含まれる成分が原因らしい。俗名『テンニョヒダ』という苔の一種らしい。その苔が絶滅危惧種に認定されたとのことで、採取不能になった『テンニュヒダ』なしでは作れないとのことで生産が中止されたのだ。

わたしは、オーデコロンの輸入代理店に連絡をし在庫をすべて買い取り、またそこと取引のある問屋やショップを紹介してもらい、可能な限り買い占めた。国内にあるだろう在庫は、1ヵ月半かけてほぼすべて入手した。

もちろん、Fのためにスタートした買占めだ。Fの驚き、喜ぶ顔を思い描いては、電話をし、メールを送り、購入するための送金を続けた。

集まったのは、115本。Fにとって、一生分あると思う。われながら、よく集めたものだ。

また、同じ時期にワンルームマンションを購入し、改装を終えた。


ふたつのことを終えた週末、わたしはFを新しい部屋に招いた。

オーデコロンを集めたことも、部屋をバスタブのみに改装したことも内緒にして。

Fは来なかった。来ないかわりに奥さんから、わたしの携帯に電話があった。

「そちらには行きませんので、よろしく。」

グチャッと音をさせて電話は切れた。


わたしは、バスタブにはじめてのお湯を張り、全部のオーデコロンをバスタブの脇に並べた。Fの好きな麻のセーターを脱ぎ、淡いグリーンの下着もとる。不思議なもので、部屋の真ん中で脱げばいいものを、脱衣は部屋の端っこでしてしまう。壁際で脱ぐ習慣は、スペースが広がっても変えられないちっぽけな自分が、少しだけかわいい。

かなり奮発したつもりの、ゆるやかなティアドロップタイプのバスタブに右足からつかり、一度だけ深く身体を沈めて身体をひるがえす。

バスタブの脇には、整然と並んだ115本のオーデコロンがある。

1本だけ、キャップをはずしてみた。

湯気のくぐもりともに、Fを感じるにおいがわたしを包んでくれた。

もう1本あけた。

Fに近づけたような気がした。

さらに、新しい瓶…そして、もう1本。次々にあけていって、バスタブの中にも入れた。垂らすのでなく、ドボドボと。

そして、115本目は頭からかぶってやった。

部屋の中は、湯気が充満し、オーデコロンの粒子がその隙間を埋めていた。もはや、そのにおいは何のにおいなのか分からなくなっていた。鼻をつんざく棘のようなものだ。そういえば、『テンニョヒダ』ってどんな植物なのだろう。ふわふわしたイメージがする名前だけど…。

ポロポロと流れ出る涙は、悲しみからなのか。それとも、この部屋いっぱいのオーデコロンの刺激によるものなのか。

もうすぐ夜が明ける。

わたしは、一生分のFのにおいを一晩で使い切った。

Fのにおいは、この先わたしから消えることはないだろう。





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「開戦以来の米兵の死者は、米中枢同時テロの犠牲者二千九百七十三人を上回り三千人を超えた。イラク民間人の死者は、それよりはるかに多い約五万二千人に上る。治安の回復が遅れるほど失われる命も増えてしまう。」

深夜に近い長尺のニュース番組。東北地方の小さな町で一匹の犬が工事中の下水管に入り込み、それを救助しようと右往左往する人間たちのドキュメントがトップから延々と続いた後、週末の天気予報とのわずかな時間にわずかに差し込まれたトピックに解説者はたんたんとコメントする。

「冒頭でお伝えした迷い犬もそうですが、今、この瞬間も生死を分ける命に対して、わたくしたちはもっともっと考える必要がありそうです。」

白々しく添えたアンカーマン。この人はいつもそうだ。スタジオのカメラだけに話しかけている。そこから先につながっている僕らは眼を見ていない。彼にとって僕らは数字でしかない。視聴率という化け物のとりつかれた彼にとって、僕らの存在価値は数字というアイコンとしてしか認識されていない。

「続いて、週末のお天気です。今日は、日本最南端の島にある最南端の炉辺焼き屋から中継です。
僕の以前、一度だけお邪魔したことあるんですよ、そこ。自家製の干物が美味いんですよね~。いいなぁ。こんちきしょうという気持ちを抑えながら、呼んでみましょうか…。」

この国に住んでいると、もはや戦争自体が最初からなかったかのように思えてしまう。
僕はテレビを消した。
テレビの上に飾ってある1枚の写真は、いつもと同じように大口開けて僕に笑いかけている。
「カリカリするな。俺は大丈夫。」
彼は、僕らの間でビッグスマイルと呼ばれていた。
いつもいつもフルスイングで笑っているから。

地平線にいる人が読む新聞の文字が判読できると豪語する彼は、どんなに遠くにいようと知り合いを見つ
けると、大きく手を振って笑い、ずんずんこっちに歩いてきて、ガシっと手を握り、
「元気?」「じゃあね、またね。」
と言って手を振りながら猛烈な笑顔とともに来た道を戻って行っていた。
この2つの言葉が好きなのだそうだ。
そして、この2つの言葉だけで人はやっていけるというのも彼の持論だった。

「がんばってるかい?」
「今度会うときはもっとハッピーなお互いになっていようぜ。」
彼からのメッセージ。
なるほど、なるほど。

ビッグスマイルは、今、イラクにいる。
アメリカにいる息子の養育費のためとのこと。ちょいとアルバイトさと。
イラクに行く前、彼は知り合いの写真家に頼んで1000枚の自分写真をつくった。
そして、ズンズンとやってきては手を握り
「元気?」
「じゃあね。またね。」
と1000人にその写真を渡し歩き、戦地に赴いた。
3日間で1000人1000枚。
最後の一日は、僕の自転車で配ってまわった。

今朝、サドルの裏側にぎゅうぎゅうに丸められたコバルトブルーの折り紙を見つけた。
ビッグスマイルからの手紙だった。

Thank You
Good Bye
Peace
I Hope

ちくしょう!
ビッグスマイルこそ元気か?
毎日、何してるんだ?
帰って来いよ。
絶対たぞ。

今度会うときは、僕からビッグスマイルに声をかけるよ。

「元気?」「じゃあね、またね。」

早く帰って来い。

いつもどおり仕事を終え、やっとローンを払い終えた車に乗って妻の待つ自宅へ帰った。

同棲時代を含めて、8年目を迎えた僕らにとって、今日はささやかな記念日だ。8年前の今日、僕らはここで生活を始めた日。そのささやかな記念日のためのささやかな花束が助手席に鎮座している。自宅では、妻がパスタをつくる準備をしているはずだ。はじめて僕らの家で作ったミニトマトだけでつくるパスタだ。


2LDKの賃貸マンションの玄関を開けようと鍵を差し込んだとき、わずかながらはっきりチリチリとした違和感を感じた。それは、靴を脱ぎ、リビングに向かう3歩歩けば次のドアが待つ短い廊下を進むうちに熱を帯びたように増していく。

「おかえりなさい。」


リビングには黒ぶちの眼鏡をかけた知らない女性がいた。

「あ、ただいま…え…あ、あの僕の妻は…。」

「わたしです。」

ちがう。僕の妻じゃない。目の前にいるのは、知らない女性だ。

「ち、ちょっと待って。うーん…やっぱり違う。あなたは僕の妻じゃない。」

僕はリビングの入り口で立ちつくしたまま言った。悪い冗談だ。夢だ。

「あれ?もしかして知らなかった?300年に一度のリセット法案。」

リセット法案?知る?知らない?何?僕の目の前にいる女性は、少しだけ困った顔をしたまま立ち上がった。そして、彼女は隣の部屋に行き、僕の妻がいつも使っていた携帯用の鏡を僕に手渡した。

「その鏡で自分を見て。」

言われるままに鏡を見た。僕の知らない男が僕をじっと見ていた。

この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。


僕はそう信じて、土砂降りの雨の中、一人走り続けている。かれこれ1時間は走っているはずだ。不思議と息は切れない。穴が開いているナイキのスニーカーは、水を吸って泥の塊のようになって僕の足にまとわりついてる。

目的地は、この森をぬけたところにある音楽堂だ。1年に1度、この街出身のオールドプレイヤーたちが帰ってきてライブをする。彼らは、20年前の日本のロックシーンを切り拓き、現在もなお生き様としてロックしている真のアーティストたちだ。僕の中学生時代の大半の時間を占有していたのは、まさに彼らの音楽たちだった。

それらは、キラキラもしていたしギラギラもしていた。


ここ数年間、いつもイライラしていた。仕事で良い成績を残しても、きれいな女の子と一緒にベッドに入っても、バイクに乗って時速200キロを超えても。まるで、ヘドロの海に漂っているような毎日。会社に辞表を出した。特に揉めることもなく受理され、ちょうど10日後に10年間勤めた会社に行かなくてよくなった。

ただ会社を辞めても、イライラ感はつのるばかり。部屋から出ても出なくても、僕は僕自身で僕の問題は何も解決しない。僕の問題は、根が深いのか、それとも根無しなのか。


いつのものように昼前に起きて、まずは1本のタバコに火をつけた。11階の僕の部屋にあるただ1箇所の窓を2センチだけ開け、ほんの少し冷たい風を頬に感じ、これから何をしようと漫然と考えていた。

遠くの方から音が聴こえた。聴こえたというより、かすかに鼓膜がふるえた。

枕元にフライヤーが丸まっている。今日から明日にかけて行われるロックフェスのフライヤーだった。

耳の奥で捕らえたロックンロールの咆哮は、僕の心に火をつけた。

あの山の麓に行かなくてはいけない。


外に出ると、猛烈な太陽の日差しの中、土砂降りの雨を浴びた。

バイクのキーをマンションの屋上に向かって放り投げる。そして、そのまま向こうに見える山に向かって走った。走り始めてすぐに背後にキーが地面に叩きつけられる音がした。それは、遅れて鳴った号砲だ。僕は、走った。20年ぶりに走った。


森に入ると、バスドラの振動が木々を揺らし、さらに走ると歪んだギターの音が樹皮を剥ぐ。走りきったステージには、あのロックスターが唄っているはずだ。


はじまりも終わりもない、僕らにあるのはいつも道半ば

だから満ち足りたことなんか一度もない

あるのは、いつもコップ1杯の水


この雨の向こうには、もう一人の僕がいる。

走れ、走るんだ。


1111


『赤鬼の出べそ』と呼ばれるこの場所に新しく道路が出来た。

外周2キロちょっとのそこが、僕の新しいステージだ。1ヶ月前から、ここを毎日、バスで20周走らせている。ぐるぐるぐるぐる。

平日の昼間、家もお店も工場も田んぼや畑もないそこを走っても、ほとんど乗客がいない。

だけど、この仕事はいやじゃない。まっさらな雪の上を滑るのは、こんな気分なんだろう。

今現在の乗客はひとり。あまり見ない制服を来た高校生であろう女の子のみ。ルームミラー越しに見える彼女は、窓からずっと空を見ている。とてもかわいい。

やっぱりこの仕事は悪くない。

「すみません。お尋ねしていいですか。」

「あ、はい。どうぞ。」

マイクを伝う声が少し裏返ってしまった。ちょっとかっこ悪いな。

「一番、景色のいいところで降りたいのですが、どこで降りたらいいでしょうか。」

景色のいいところといえば、岬の突端になる『赤鬼の出べそ展望台入り口』かな。

「展望台がこの先にあるので、そこが一番景色がいいと思うな。」

「ありがとうございます。そこで降ります。」

「了解。」

展望台まで、ここから10分程度だ。天気もいいし、かわいい女の子と二人きりのドライブ。悪くない、悪くない。

「すみません。お尋ねしていいですか。」

「はい。どうぞ。」

今度は、さっきよりかっこよく響いたかな、僕の声。

「運転手さんは、どうして運転手さんになったのですか。」

「うーん、なんでかな。親戚に運転手をしていたおじさんがいたというのもあるけど、運転手になったら仕事中は一人ですべてを出来ると思ったからかな。ずらっと机を並べて仕事をみんな一緒にというのは、多分、自分に向いてないだろうと思ったから。」

「楽しいですか?仕事。」

「うん、楽しい方だと思うよ。特にこんな天気のいい日は。」

「わたし、今日、学校をサボってきたんです。はじめてです。こんなことしたの。」

「そりゃいけないなぁ。と言いたいところだけど、僕はいつもサボってた。」

「楽しかったですか?サボって。」

「楽しかったね。」

「楽しいことばかりですね、運転手さんは。」

「君は楽しくないの?毎日。」

「多分、楽しんでないと思います。学校サボってみたけど、そのことが気になって気になって。小心者がこんなことしちゃだめですね。」

「何か、いやなことでもあったの?」

「いいえ。ただ繰り返しばかりの毎日が退屈だったんです。」

「だったら、僕なんかは最悪だ。毎日、同じ道をぐるぐる回っているだけ。」

「すみません。そんなつもりで言ったんじゃなかったんです。仕事をしている人ってかっこいいと思います。」

「あはは。ありがとう。」

女の子は、いつの間にか、僕のすぐ後ろの座席に座っていた。なんだか、甘い香りがするぞ。

「やっぱり、このまま学校に帰ります。今から帰れば、五限目に間に合いますし。英語の授業なんですよ、外国の映画を字幕なしでは見られない先生の。」

ぷぷっと吹き出してしまった。

「じゃあ、『赤鬼の出べそ入り口』で降りるんだね。学校まで送って行ってあげたいけど、それはさすがに無理だ。」

今度は、彼女が吹き出した。

「ありがとうございます。じゃあ、ひとつだけ行儀の悪いことをしていいですか。」

「どうぞ。」

「え?何をするか聞かないんですか?」

「聞かなくても、そんなに悪いことじゃないと思うから、OK。」

「このバスに爆弾をしかけていて、そのスイッチを押すとしても?」

「このバスの乗降口には特殊なセンサーがついていて、爆発物を持ち込もうとしたら運転席でメロディーが鳴るようになっているんだよ。曲は、『エリーゼのために』。」

「え?本当なんですか?」

「うそです。」

女の子は、満面の笑みを浮かべた。青い空とかわいい女の子。本当に今日はいい日だ。

「やっぱり、わたしは学校に行ってまじめに勉強していた方が向いているみたいですね。なんだか、すっきりしました。ありがとうございます。それで、行儀の悪いことっていうのは、お弁当を食べてもいいですかということなんですけど。さっきから、とてもお腹空いているんです。」

「あはは、どうぞ。」

彼女は、かばんを開けお弁当の包みを出した。運転席に幸せな匂いが伝わってくる。お弁当は幸せの詰め合わせだと思う。

「これ、よかったら。」

顔の前に差し出されたのは、うさぎの耳状に皮をカットしたりんご。バスは、誰もいない展望台入り口を通過したところだった。眼前には海がひろがり、りんごも甘酸っぱい香りが潮騒のように僕を刺激した。僕は、そのまりんごを一口に含み、女の子を一瞬だけ見て目で礼をした。

女の子の弁当箱の中身は、すべてりんごだった。全部、ウサギだった。

赤鬼でりんご。まったくもって、悪くない。悪くない。


1111


九州の南端に近い海沿いの町、1984年の春と夏に僕と彼女はそれぞれ生まれた。

この町の西側はすべて海で、その海沿いをそっと指で撫でたような南北に長い形をしている。

僕はその南端、彼女はその北端に生まれ、今朝までの3年間は、そのど真ん中で一緒に暮らした。

そして、町の真ん中を走る1本の道以外に、道と呼べるものはない。

南北に4キロメートル、東西はもっとも長いところで、33メートルしかないからだ。

町の南端と北端は岬になっていて、西側はすべて海。南北を結ぶ道の東側に沿って、僕らが住むアパートをはじめ、小さなコンビニやレンタルCDショップ、一応すべての科が揃う診療所や床屋さん、郵便局や洋服屋、ハンバーガーショップまである。

高望みしなければ、それなりに生活していくのには十分な環境が揃っている。ひとつのことをのぞいて。

僕らの住む町にないもの、それは、『移動の自由』だ。

僕らは、この町から出て行ってはいけない。隣町にさえ行けない。

理由は、僕らの特異体質だ。僕らは姿かたちは何も特異的なものはないけれど、どうも脳の機能に特徴があるらしい。

未来が見えるのだ。身体の周囲10メートルの未来。

5年後、10年後、100年後、1000年後。


昨晩、いつものようにささやかだけど心地よい夕食を一緒に食べてから、いつものように彼女が食器を洗い、僕がタオルで拭いていると彼女が言った。

「明日、ここを出ない?」

「ここを出てどうする?」

「どうするのかな。分からないわ。だけど、ここにいちゃだめなような気がする。」

「でも、ここを出るともっとだめになるかもしれないよ。」

「多分、そうだよね。」

「そう多分。」


出て行くとどうなるか。僕らを含めて町に住んでいる人々約250人は知っている。

気が狂って死ぬのだ。他の土地の未来を見ると、気が狂って死ぬのだ。どうやら、未来に希望はないらしい。希望どころか、絶望の遥か上、果てしない悲しみがそこにあるということだ。

そうやって、僕らの友人、知人数名が亡くなった。

お通夜の晩は、いつも二人で出掛けて、歩いて帰った。死んでしまった知人も、僕らも無言のまま帰るだけだった。

亡くなった人々は、決まって安らかな表情をしていた。身体中の涙をすべて出し切ったようにすっきりとした顔をして死んでいくのだ。

果てしない悲しみの先には、安らぎが待っているということなのか。


「どうして出ていくの?ここを。」

「ここにいると、ずっとこのままでいられて、ここを出ると気が狂って死んでしまう。それは分かっているの。」

「死んでしまっていいの?」

「よく分からない。死んだことないから、分からない…なんてね。本当は死ぬのは怖いよ。怖いけど、ここは何もない場所なんだと最近、つくづく思うようになったの。何もないから、何も起こらない。何も起こらないことは今のわたしには耐えられないの。あなたがいて、わたしがいて、友達がいて、朝が来て夜がくる。それはとてもわたしにとって大切なことで、かけがえのないものだけど、その中心にいるわたし自身が空っぽなの。どうしてなのかずっと考えていたけど、ここにいては何も分からないわ。ここは、何も起こらないから。」

この町には、本当に何もない。希望から絶望まで。漫然と毎日を送るだけだ。微笑まじりの退屈しかない。彼女の言うことは、とても理解できた。

「で、どうやって出るの?この町を。」

「バスに乗っていくわ。」

この町を走るバスには2種類ある。ひとつは、南北に海沿いを走る道を一日15往復する通称『黄バス』。もうひとつは、外部から働きにやってくる人々用の『赤バス』。彼女は、この『赤バス』に乗り込むつもりだ。僕らこの町の住民が、この『赤バス』に乗るにあたり、制約は何もない。この町を隣町の間にゲートがあるわけでもなく、監視員もいない。ただ、出て行くと生きて帰ることが出来ない恐怖感だけが、僕らをこの町に縛り付けているだけなのだ。『赤バス』に乗って来て帰って行く他の土地の人々は、いつも決まっている。ちょうど15人だ。彼らは、僕らの特異な体質のことを知っている。この町から出て行った人がどうなったかも知っている。そういった人々が乗る『赤バス』に乗って、彼女はこの町を出て行こうとしている。出て行きたい気持ちはなんとなく分かる。分かるような気がする。いや、分かっているのだろうか。分かっていないような気もする。

この町に生まれ、この町に住むということは、あらゆることを受け入れるしかない。許容できずは死あるのみなのだ。

「でもね…。」

「ん?」

「わたし、ここに帰ってくるのよ。」

「……。」

「そんな顔しないで。ここを出て行った人たちがどうなったかも知っているし、あなたが今、何を考えているかも分かっているつもり。でも、わたしは帰ってくるの。あさっての朝には。1泊2日の隣町へのひとり弾丸ツアー。」

「ごめん。正直なところ、そう思えないんだ。そう願うけど、そう思えない。」

「うまく言えないけど、帰ってきて明後日の晩は一緒に食事するの。そして、次の日も、また次の日も一緒に食事をする。ずっとずっとずっと。」

彼女はポロポロと泣き始めた。

「わたしね…わたしやあなたやこの町の本当のことを知りたいの。この町から出た人が気が狂って死んでしまったことは、小さい頃から何度も何度も聞いたし、物心ついてからは、何度かそうやって死んでしまった人のお葬式にも出たでしょ。だけど、目の前で誰か死んだ?いつも、いつの間にか誰かが死んでいて、未来を見て気が狂って死んだんだって言われて。なんか、最近、それって本当なのかな。」

そういえばそうだ。もしかすると、壮大な都市伝説のようなものかもしれない。だからと言って彼女がそれを確かめる必要はどこにもないと思うけど。でも、この町で生まれ、この町で生活しているとすべてを受け入れるようになってしまうのだ。たとえ、最愛の女性が死に行くとしても。

明日、彼女はバスに乗って行く。

僕は待つ。

待つのだ。