漆喰の壁にはめ込まれた1枚の木板。小さな頃からいつも傍にいてくれた木板。わたしと木板は、やっと安住の場所を見つけたのかもしれない。

 結婚から5年たち、私たち夫婦は家を建てた。購入したのではなく、建てたのだ。全体像から間取り、ドア1枚1枚のデザインや建具のスケッチなどは、最終的に4百枚を超えた。主人の友人である設計士を中心にセルフビルドに理解ある人々に協力してもらい、週末の休日を中心に2年間をかけて作り上げた。痒みにのたうちまわりながら、床材は漆を幾重にも塗り重ねた。筋肉の走行ラインをはっきり意識出来るほどの筋肉痛になりながら、壁に漆喰を塗り続けた。屋根に登り防水タイルを張りながら見た沈み行く夕陽を見て、トイレの天井を無難な白から燃えるようなオレンジに塗り替えた。
 そして、わたしが最もこだわったのが、この木板をはめこむ場所だった。

 木板には、所々波打ったラインでピアノ鍵盤がスケール通りに掘られている。今から25年前、9歳になったわたしへの父親からの誕生日プレゼント。兄のプラモデル作りを手伝うつもりが壊してしまったくらい不器用だった父親が作ってくれた音の出ないピアノだ。。
 わたしの家は、今思うと仲が良いことだけが自慢の貧乏家族だった。3食の食事に困ることはないけど、時々機嫌を損ねる小さなテレビが我が家の最高級家電で、ビデオデッキやエアコンはなかったし、電話機は黒電話。家族4人分の洋服は、小さなタンスひとつですべてのシーズン分収まっていたし、自分用の部屋というものを誰一人として持っていなかった。
 その頃のわたしは、いつも歌っていた。時間割の中で一番楽しみだったのも音楽の時間。音楽の教科書の裏表紙には、ピアノの鍵盤がプリントされていて、その鍵盤を使って日記代わりのオリジナルソングを弾き、家族の前で毎日歌っていた。また、クラスのイベントごとの度にピアノ伴奏をするエイコちゃんという同級生がいた。彼女の誕生日パーティーに呼ばれて行った時、自宅に本物のピアノがあることを知ってびっくりした。「すごいね、いいね。」とエイコちゃんに言ったら、「わたしピアノ大嫌い。おもしろくない。」と悲しそうな顔をしたのにもびっくりした。
 家に帰ってから、誕生日パーティーの報告を兼ねた歌を歌った。エイコちゃんのピアノについて歌った。「黒くて立派で音まで出るのにエイコちゃんから嫌われてかわいそう。ピアノさんが歩けるなら、わたしのお家に遊びに来たらいいのにね」という内容の歌だった。小さなわたしはピアノが欲しくてそう歌ったわけじゃない。エイコちゃんに嫌われているピアノがかわいそうで、そのことを無邪気に歌っただけなのだ。わたしは、わたしのピアノ・・・教科書の裏表紙にプリントされたピアノが大好きだった。聞いてくれる家族がいつもいたし、どんなに複雑で難しい曲でも思い通りに弾けたから。
 でも、父親の感じ方は、ちょっと違ったらしい。2日後の日曜日の朝、洗いざらしのコットンを身にまとったような柔らかな光に満たされた早朝6時。気配というか、予感というか、なんとも言えない淡いオレンジ色気分で目が覚めた。わたしたち家族4人は、いつも3枚の布団に並んで眠っていた。母親、弟、わたし、父親の順に。目を覚ましたわたしの右側は、いつもどおりの景色・・・弟と母親の寝姿が見える。ところが、左側にいるはずの父親がいない。たしか、仕事は休みのはず。休みの日は、たいてい最後まで寝ているのが父親で、その父親を起こすのがわたしだった。そういえば、すぐ隣の小さな台所から音がする。かさこそ、かさこそ。そおっと起き上がり忍び足。引き戸の隙間から覗いて見ると、父親が食卓の上で何かを磨いている。
「おはよう。」
 わたしは、その隙間に顔を押し付けて、なんだか楽しそうな父親の背中に向けて言った。予期してなかったわたしの声に、いすから飛び上がらんばかりに驚いたのが面白くて、わたしはするするとドアを開け、父親の背中に抱きついた。父親の大きな手がわたし全体を持ち上げ、膝の上にすべらせる。膝の上から見た真新しい景色のことをそのとき以来忘れたことなど一日たりともない。そこから見えたのは、木板で作られた新しいピアノだった。不器用な父親が徹夜をして彫り、磨き上げてくれた弦のないピアノ。
「いつかは、ちゃんとしたピアノを買ってあげるからね。」
痛ましげに、誇らしげにカットバンを張った指を照れくさそうに隠して、わたしをきゅっと抱きしめてくれた。

 わたしのピアノは、その日から今日までずっとその木板だった。音楽を志す者誰もが憧れる音大を目指し、入学し、卒業もしたが、わたしは父親の膝の上から見たピアノ以外を所有したことがない。音楽室のピアノと、自宅の木板のピアノを毎日弾いた。音楽室のピアノは先生みたいな存在で、木板のピアノは大親友のようなものだ。木板のピアノはいつも応えてくれたし、元気や勇気をくれた。
 また、木板のピアノにも調律が必要になることがある。それは、わたし自身の調律が必要なときでもある。同級生や先輩、後輩、友達・・・身の回りにいる音楽仲間たちは、悲しいかな、結局、戦うべき相手なのだ。時に戦友のような間柄になることもあるけど、それはお互い、ある程度、それも同程度の成功を手に入れたときのみで、それさえも脆く危ういバランスの上に成り立っている関係だ。好きな音楽の世界に身を置けば置くほど消耗していったわたしは、卒後間もなく再生不可能なピアノになってしまった。きりきりに巻き上げれた弦が、はじけ飛んでしまったのだ。わたしは、ピアノ弾きに必要な聴覚や触覚をはじめとするあらゆる感覚を失い、発見されるまでの数日間、木板を膝に抱えてうずくまっていたそうだ。

 それからの2年間は、山間にある精神科に入所していた。語弊を恐れずに言うと、そこは、「狂った」人でなく「失った」人が集められた施設だった。塵ひとつない15平米の白い箱が、医局を中心に12部屋配置されている。各部屋は、放射状に・・・医局を中心とした時計の文字盤のように円形に並んでいる。新しく入所した人は、12時の部屋にまず入る。同時にそれまで12時の部屋にいた人は1時の部屋に、1時の部屋にいた人は2時の部屋にというように時計回りに移動する。スタッフ以外との関わりを遮断されていたわたしたちが、唯一、自分以外の「失った」人を感じられるイベントだった。逆に誰かが退所すると、その人よりも大きな数字の部屋に入っている人は、反時計回りに部屋を移動することになる。反時計回りに移動した日は、いつもより少しだけ前向きな気持ちになれたものだ。「いつか、わたしも」と思えたから。
 そこは、心の自己免疫作用のみで、わたしたち「失った」人を回復させることを第一義とされた。規則正しい生活と、他者からの刺激を極力避けることが何よりも優先された。華奢な鉄格子に囲われた小さな窓から見える空の景色だけが、自分以外のもののすべて・・・そんな場所。施設のスタッフたちも、言葉を発することは一切ない。伝えるべきことがあれば、各部屋に備え付けられたノートを介して伝達される。治療スケジュールに関するものから、他愛のない冗談や天気の話まで、とにかくたくさんのことがスタッフとわたしたちによって書かれる。そのノートは、わたしたちの部屋の移動と関係なく、各部屋にとどまる。つまり、以前の住人によって書かれたものを読めるし、わたしが書いたものも誰かに読まれ続けるわけだ。退所してから気付いたけど、これはとても良く出来たシステムだった。自分のペースで他人のペースを垣間見ることが出来るし、「失った」人々が、「失った」人々に向けたエールのようなものもたくさん書かれていた。「失った」人は、ここで傷ついた羽を休め、一本一本の羽毛を丹念に紡がれていく。  
 ここに入所して1年以上、ピアノを弾くことはなかった。というより弾けなかった。弾きたいけど、弾けないのだ。わたしのピアノに指を置くだけで、嘔吐を繰り返してしまう。入所して1年後の月に一度だけの面会日に、父親にそのことを話すと、にっこり笑って
「ピアノのどこかが調子悪いのかな。ちょっと、見せてもらってもいいかな?」
と言って、施設スタッフに木板のピアノを面会室ロビーに持ってきてもらった。
 両手で大切そうに受け取り、手のひらで撫でたり、軽く叩いてみたりしてその感触を確かめながら「よしよし」と呟く。。それは、木板のピアノへの調律だった。わたしのピアノの調律は、父親の役目で、調律後の音はどこまでも伸びていく飛行機雲のようだった。
「これは重症だなぁ。ミのシャープの音が出ないみたいだから。」
そう言うと、おもむろに椅子を蹴飛ばし、手にしていた木板のピアノを床に打ちつけた。何度も何度も何度も。
「ごめんな。ごめんな。こんなもの作ったから、パパがこんなものを作ったから毎日がつらいよね。ごめんな。ごめんな。」
わたしは父親の腰にしがみつき、わたしのピアノを壊さないでと大声で哀願した。騒ぎを聞きつけたスタッフたちが、まず、わたしを父親から引き離した。父親は壊れたおもちゃのように、木板のピアノを打ち続ける。ごめんな、ごめんな、ごめんな・・・グゴッ・・・。両手すべての指が折れているのではないかと思うくらい強く握り締められた木板のピアノは、くの字に折れてしまった。涙なのか、汗なのか、顔じゅうをぐしゃぐしゃにした父親は、照れたように首をかしげてわたしを見た。その表情は、わたしに木板のピアノをプレゼントしてくれたあの朝と同じだった。いや、20年分刻まれた皺の分だけ、より柔らかくやさしく、わたしを見ていた。ゆっくりと口唇がうごく。ご・め・ん・な。
 口唇の動き以上にゆっくりと振りかぶり、満身の力で振り下ろされた。木板のピアノは真っ二つに割れ、父親から離れた木片はゆるやかな放物線を描き、わたしに向かってくる。そべてがスローモーションだった。放物線を描き飛んでくる木片がもともと何だったのか理解出来てなかったわたしは、子供を抱きしめる準備をする母親のように両腕を広げる。1回転、2回転、3回転と回りながら、わたしの元へ迫ってくる木片。その大きさは、回転とともに増していく。わたしの視界すべてが木片で占められた時、父親が丹念に掘り込んでくれた鍵盤たちがはっきり見えた。ぶつかると思って目を閉じた瞬間、わたしの顔を巻き込むように回転した木片は、柑橘系の音をさせて耳を横を擦り抜けていった。大きく前方に広げた手に何かが触れる。懐かしい感触だった。両腕を広げたままのわたしの顔は、走り寄ってきたであろう父親の胸の匂いに抱かれていた。
 二人で泣いた。世界中の底が抜けたくらいわたしたちは泣き続けた。泣き続けながら気がついた。ミにシャープはない。出るはずのない音のせいで、真っ二つに折れたピアノはまるでわたしだ。出ない音は、出ないままでいいのだ。不器用なパパは不器用なままだし、わたしもわたしのままでよかったのだ。ミのシャープを追い求めていたわたしは、いつの間にかあるはずのないミのシャープに占拠されてしまっていたのかもしれない。正体のないものに占拠されることイコール失うことでもあることに気づいた。それは『出口のない迷路』でしかない。
 わたしは、父親の腕の中でゆるやかに眠りについた。薬が介在する眠りはまるで泥水の中を泳ぐような息苦しさを伴う。しかし、その日の晩の眠りは違った。それはまるで深海に咲いた白百合のようにゆらりゆらりと香る眠り。母親のお腹の中はきっとこんな所なのだろう。コツ、コツ、コツ・・・コトリ。夢うつつなベッドの中、遠くに聞こえる雨音のような心地よい音、そして頬に感じた微かな風で目を覚ました後、また深い深い眠りについた。

 次の日、小鳥たちのさえずる音色が、わたしをかたちづくる細胞ひとつひとつをやさしくノックして新しい日の到来を教えてくれた。拭っても拭っても染み出てきていたヘドロのような表皮を拭わずにすむ朝はなんて素晴らしいのだろう。裸以上に裸になったような気分だ。ただ、わたしを侵食していたすべての問題がクリアーになったわけではなかった。わたしの抱えていた問題は、もっと大きく複雑だった。だけど、出口に通じる入り口に立てたことで、止まっていた時間がやっと前に進み始めたのだ。
 わたしはベッドから起き上がり、時間を確認するためにドアの方向へ視線を向けた。7時11分。起床の合図である鐘の音がするまで、あと19分。そういえば、父親はあの後、どうしたのだろう?わたしが気を失った後、どうしたのだろう?ここには宿泊設備はないし、辺鄙な山奥にある施設なので近隣にホテルなんてものもない。今日だったら、笑いながらミにはシャープのないことを教えてあげられるのに。あとで、施設のスタッフに尋ねてみよう。
「あれ?」
昨日、折れてしまったはずの木板のピアノが、ベッド脇の小さなテーブルに立てかけられていた。凛々しく瑞々しい立ち姿は、羽を休める渡り鳥のようだった。そっと手をやり、膝の上に乗せた。ちょうど真ん中に位置するミのシャープを中心に一直線に継がれた跡がある。外科手術を受けた背中みたいで痛々しかったが、逆に新しい命を吹き込まれたようにも見えた。目を閉じ、一番低い音から高い音まで人差し指で撫でてみた。
「聴こえる・・・ちゃんと響く。」
わたし自身が変調をきたし始めたときから、ピアノの弦は巻き上げられ続けた。きりきりに引っ張られた弦がさらに巻かれるときの音は今でも忘れることが出来ない。暴走しっぱなしのジェットエンジン。限界まで巻き上げられて弾け跳んだ弦は、永遠にほどくことができそうもないくらいにからまってしまっていた。そんなピアノに昨晩、どんな魔法がかけられたのだろう。誰が、魔法をかけたのだろう。弦が切れ、真っ二つに折れた木板のピアノ・・・どこまでも高く深く響く音色は、小さな頃から聴いているあの音と何一つ変わってなかった。
 窓の下に備え付けられた棚の上に木板のピアノを置いてみた。小さな窓から朝の柔らかい光が注がれる。木板のピアノとわたしは、久しぶりに穏やかな呼吸を交わした。大きく伸びをしたまま、両指の準備運動を2度3度繰り返しながら、何から弾き始めようかと思いを巡らせた。そうだ、あの曲を弾いてみよう。とても難解で技巧的だから敬遠されがちだけど、わたしにとっては永遠の課題曲。水彩絵具で心の深層を描くと、きっとこんな感じなのだろうと思われる神秘的な曲。
 久しぶりに弾くにはちょっとばかりミスチョイスだったみたいで、なかなか指がついてきてくれなかった。だけど、ミスタッチさえも嬉しかった。木板のピアノの音との再会が何より嬉しかったから。 止まっていた時間が動き出し、その時間を忘れてピアノを弾き続けた。
 食事も水も摂らずにひとしきり弾いた後、ボンドとパテで修繕された痕を確かめた。色々な角度から見たり、軽く叩いてみたり、擦ってみたり、匂ってみたり。なんとなく、父親の仕業でないような気がした、なんとなく、なんとなく。その時、椅子から立つ気配を背中に感じた。主治医のM先生の背中。いつからか、M先生が部屋に入ってきていたようだ。わたしが木板のピアノを弾くのをずっと聴いていたのだろうか?
 M先生は、ドア脇にかけられているノートに手をやり、胸ポケットから取り出したペンで何かを書いた。わたしの方をちらりと照れたように見てから控えめに右手を上げて合図、そのままM先生の癖である髪の毛をクシャクシャとかき回して、部屋から出て行った。カチャ。M先生のメッセージが書かれたノートは小さくゆっくり揺れている。ユラユラユラリ。わたしは、ノートの振幅に歩調を合わせて、ゆっくり近づいた。ノートを開き、小さく丁寧に書かれているはずのM先生のメッセージを探す。

(気持ちの良い朝のスタートをありがとう。【スクリャービン・ピアノ・ソナタ第7番・白ミサ】かな?間違っていたら、ごめんなさい。)

 驚いた・・・その通りだった。ロシア人のスクリャービンが作曲した難解な宗教曲であるこの楽曲を知っていることも驚いたが、木板のピアノで弾いたものを聴き取れる人がいたことに、もっと驚いた。わたしは、こう返事を書いた。

(びっくりしました。その通りです。わたしにとって、この曲をマスターすることがピアノをする上で目標の一つだったのです。今日は、全然駄目でしたけど。)

 その日以来、ノートを介してのM先生との会話は、ピアノや音楽の話題ばかりになった。M先生は、オーディオマニアだった。オーディオ好きな人の音楽嗜好は、クラシックかジャズに向くことがほとんどらしく、M先生は前者とのこと。スクリャービンによる楽曲はピアニストによって解釈が多様で、各ピアニストのものを聴き比べるのが楽しいそうだ。

(スクリャービンは、わたしにとって永遠に与え続けられる課題曲のようなものです。)

(それは分かるような気がします。僕は、ピアノを弾けないのですが、聴くのは大好きです。その中でも、スクリャービンの楽曲が録音されたものを聴くのは特に好きです。同じ楽曲でも、ピアニストによって全く違うものになっているからです。)

(スクリャービンの曲は、何も考えずに楽譜どおりに弾くと、とても退屈な曲が多いような気がします。音数が多く、展開も複雑で技術的に難解な曲が多いのですが、それ以上に、楽曲の中に込められた意味や想いがとても深い場所に埋まっているのです。)

(なるほど、それでピアニストごとに違う楽曲のようになっているのですね。うんうん、おもしろい話をありがとう。)

(いえ、わたしが勝手に思っているだけのことですから、スクリャービンからすれば不正解なことかもしれませんよ。)

(解釈すべき大きな余白があるということは、僕にとってとても興味深いことです。そこに向き合うことはつまり、自分と向き合うことなのです。僕がスクリャービンの楽曲が好きな理由は、そこだったのかもしれません。スクリャービンの楽曲自体というより、それを弾いているピアニストの真の姿を感じられるから好きなのかもしれません。)

(それにしても、木板のピアノで弾いたものの曲名が分かりましたね。)

(余白が多い楽曲だからでしょうか?音が聴こえたというより、イメージが伝わってきたのです。)

(どんなイメージなのか、よかったら教えていただけますか?)

(   “YES”   )

 わたしは、ここを出てもやっていけるような気がした。

 “YES”が書き込まれた翌日、父親が面会にやって来た。木板のピアノを折ってしまって3ヶ月が経っていた。木板のピアノが修復を施されて、わたしの手許にあることは知っていたようで、何度も何度も謝った。わたしたちは、ここの談話室でのみ会話が許される。
「ごめんな。本当にごめん。お父さん、どうかしていたんだよ、あの時。木板のピアノのせいじゃなくて、お父さんのせいなのに・・・ピアノを憎んでしまったんだなぁ。本当にごめんな。」
「お父さんのせいじゃないよ。うまく言えないけど、誰のせいでもないの。多分、もうしばらくしたら、わたし、大丈夫になるような気がする。今ね、わたし毎日、弾いているの。久しぶりよ、ピアノを弾くことがこんなに楽しいのは。」
「そうか、それはよかった。退所したら、ゆっくり聴かせてほしいな。」
「もちろんよ。それと、先生、聴こえるのよ、木板のピアノの音が。」
父親の横に座っている先生は、いつもの癖・・・髪の毛をクシャクシャとかき回しながら言った。
「とても癒されています。とても、すばらしい。とても、とても、とても感動させてもらっています。」
父親は、席を立ち、直立不動のまま
「ありがとうございます。先生には、どれだけの言葉を重ねても足りません。本当にありがとうございます。なんでも、木板のピアノを修復してくれたのも、先生とのことで。粗末なものですが、わたくしと娘を結ぶ絆のようなものと申しますか、まあ、そういった類の大切なものでございまして。それをあんな風に壊してしまいまして・・・先生は、散らばった木片のどんなに小さなものまで集めてくださり、修復してくれたとのことで・・・本当にありがとうございます。娘が退所しましたら、あらためてお礼にお伺いしたいと思っていたところなんです。いえ、先生さえご迷惑でなければなのですが・・・。」
早口にまくしたてた。多分、自分で何を言っているのか分からなくなってしまったのだろう。やっと、退所した患者がまた押しかけてきたら、先生だって迷惑でしょうに。
先生も席を立ち、髪の毛をクシャクシャとかき回す。片手だけで飽き足らず、両手を使ってかき回す。
「いや、あの、その・・・とんでもないです。とんでもないです。木片をすべて集めたのは、まあ、職業柄と申しますか、すべてのパーツを揃えていって、パチパチ嵌め込んでいくと申しますか・・・こう・・・失われたものを拾い集めていけば、必ず元通りになるものですから。好きなんです、そういうのが。」
そして、何を思ったか、先生はテーブルを半周してわたしの横にやって来た。わたしの顔をじっと見てから、意を決したように父親の方に向き直り、こう言った。
「甚だ失礼で、非常識なのを承知で言わせていただきます。お嬢さんと、お付き合いさせてください。あ、あ、あのよければ、結婚を前提にお付き合いさせてください。」
ガバッと頭を下げる。
 何が何だか分からないとは、このことだ。こういう施設で、患者が先生のことを好きになるのはよくあるらしいけど、逆のパターンはあまり聞かない。何よりも、わたしと先生は付き合っているわけでないし、先生からそんな話をされたことも一度もない。わたしは、つま先まで真っ赤になっていくのが分かった。
「よろしくお願いします。」
 今度は、父親がガバッと頭を下げた。そして、先生は何も言わずにわたしに向かって、ガバット頭を下げた。
 本当に何が何だか分かりません!わたしもガバット頭を下げてしまった。

 4ヶ月後、わたしはその施設を退所した。
 12時の部屋からスタートし、時計回りに反時計回りに各部屋を2年間移動し続け、8時の部屋で退所した。
 施設から最寄のバス停までゆっくり歩いて30分。わたしは、M先生と歩いた。
「先生、ここではもう声に出してお話してもいいのですか?」
「もちろん。退所したのだから、何一つ制約はありません。なんなら24時間話し続けても大丈夫です。」
とは言うものの、それからわたしたちは無言で山を下りた。話したいことはある。聞きたいこともある。答えたいこともある。
 4ヶ月前の告白というか、プロポーズは、あの日以来、宙に浮いたままだった。備え付けのノートで尋ねてみようかと何度も思ったけど、結局出来ずじまい・・・ノートは他の誰かが見ることになるはずだから。ドクターと患者のラインを超えることの善し悪しの問題もあるし、先生の立場の問題もある。そして、何よりも恥ずかしい。暗号めいたもので書かれているかもしれないと思い、M先生の書いたものを色々な方向から読み解いてみたりもした。しかし、すべてが徒労に終わった。
 わたしたちは、ほとんど人が通ることのないだろう舗装された細い山道を無言で歩き続けた。両脇には、満開の山桜が延々と続く。時折強く吹く春の風は、柔らかな陽光を背景に花びらを遠くに運んでいった。そう言えば、入所したときもちょうど今の時期だったはずだ。
「先生、わたしがここに来たとき、この桜はどうだったんですか?」
「どうって、どういうことでしょうか?」
「わたし・・・ここに来たときの前後の記憶が全くないんです。」
「そうですか。2年前の同じ時期に僕と一緒に歩いているはずです。」
「歩いているはずって、変ですよ。なんか、先生まで記憶を無くしているみたい。」
「ははは・・・そうです。2年前のこの時期の記憶がないのです。」
「おっしゃっている意味が分かりません。」
「・・・僕は、今日まで9時の部屋にいました。そして、今日から8時の部屋に移動するはずです。」
「8時に部屋って・・・わたしがいた部屋のことですか?」
「そうです。今朝、荷物をまとめて出発してきた部屋です。」
「・・・もしかして、先生は・・・。」
「そうです。僕も失ってしまった人間です。ただ、医者の資格は持っています。専門も、人間の心に関連するものです。」
「つまり、先生は、患者であって医者でもあると?」
「そうです。最初は、患者として入所しました。だけど、入所してしばらくすると、施設長に呼ばれて、こう言われたのです。『人手が足りていないから、ケアの手伝いをして欲しい』と。」
「不思議な話ですね。」
「不思議というより、変てこな話です。ケアされるべき人間にケアをしろというのですから。」
「でも、わたしにとって先生は先生でした。失った人であることなんて、微塵も感じませんでした。」
「ありがとう。たった一人の患者から、そう言ってもらえるとうれしいです。」
「となると、先生は今日からどうするのですか?」
「どうするのでしょうね。施設に戻り、荷物を8時の部屋に移動する。それから後のことは、主治医が考えてくれるでしょう。」
「主治医がいるのですか?」
「はい、一応います。いるというか、僕自身が主治医です。」
「不思議な話ですね。」
「不思議というより、変てこな話です。」
 山を降りきると、T字路につきあたる。そこを右に折れて100歩ほどでバス停に到着した。時刻表を確認すると、ちょうど15分後にバスは到着するようだ。一日4便だけやって来るバスの3便目。
 あと15分すると、わたしは今までいた場所から切り離される。先生は、その場所に残る。この2年間を締めくくるはずの15分間、わたしたちは無言で並んでいるだけだった。ドラマチックな転換も結末もなく、きっかり15分でバスはやってきた。
 プシュー。エアーの吐き出される音と共に、バスの乗降ドアが開く。わたしは、右手にピアノ、左手にボストンバッグを抱えてタラップに足をかけ、ゆっくりと上り振りかえる。先生は、両手で頭をくしゃくしゃとかき回している。
「ありがとうございました、先生。」
「いえ、こちらこそ・・・って、なんか変だな、ハハハ。」
「また来ます。」
「いや、ここはもう来るところではありません。」
「でも、来ます。」
「いや、それは主治医として困ったりもするわけです。」
「だって・・・。」
「あと、半年待ってください。僕もけりをつけますから。」
「・・・待ってていいのですか?」
「はい。ぜひに・・・YES・・・です。」
そう言うと、両腕をまっすぐ空に向けて掲げピースサインをわたしに送った。かっこ良く・・・はなかった。かっこ良くはなかったけど、信じてもいいのだと確信出来た。わたしは、ピアノと荷物を抱えたまま胸の前でダブルピースを先生に送った。
「YES!」

 半年を2ヶ月だけ過ぎたけど、M先生は約束どおり退所してきた。退所してくるまでの8ヶ月間、わたしはスクリャービンを弾き続けた。M先生の言うところの解釈すべき余白を一つ一つ紐解きながら8ヶ月を過ごした。そして、自分なりの解答を得た。
“余白の中には何もない。雲ひとつない青空みたいなものだ”
 気がついてしまえば当たり前のことなんだけど、余白に込められた意味を探そうとすればするほど深みにはまる。そこは意味を探すところでなく、自己を投影出来る場所であり、自由に泳ぐべきところなのだ。スクリャービンは、壮絶に複雑なキータッチを強いれば強いるほど、演者は無心になれはずだと思って、ピアノ・ソナタ第7番・白ミサを作ったのではないだろうかとも思う。
 余白は余白のままにしておくことが、失わないことなのだ。

 M先生の退所から半年後、わたしたちは入籍した。若い紫陽花の花が梅雨空から降る雨音をはじく路地・・・一本の傘を高く掲げて歩いて行った。頭をくしゃくしゃするのを我慢するために、左手で右手をがしりと押さえながら言ってくれたプロポーズの言葉は、内緒。
 もうすぐM先生が仕事から帰ってくる。今日は、はじめての結婚記念日だ。キッチンからは、ビーフシチューを煮込んでいる鍋のグツグツ音が、幸せなリズムを刻んでいる。わたしは、その音を聴きながら、木板のピアノを弾く。
 夕暮れ時のしとやかな空気は、ゆったりとわたしとM先生だけの時間を繋ごうとしてくれている。