原因やきっかけなんていくらでもあるし、後付けでしかない。

 購入して3年になる小さな建売住宅は、小倉の都心から車で15分というまずまずの場所にある。べニア板で作った小箱を珪藻土で薄く塗り固めただけの我が家は、3年という月日以上に色褪せてしまったように見える。
 この家に越してきたのは、3年前のちょうど今時分だった。150世帯分の家が規則正しく配置された新興住宅地の真ん中を貫く道路を真っ直ぐ進んだ。両脇には、満開の桜。幸福という未来へ続く新しい土地への引越しだと信じて疑わなかった。
儚(はかな)げさゆえの美しさは、時に残酷な記憶となることなど想像だにしなかった。
今年も、その桜たちは一直線にそ知らぬ顔して咲き連なっている。

 僕の家庭は、半年前から崩壊している。妻は飲めなかったはずの酒を一日中飲んでいる。14歳の娘は、中学校に行くことを半年前からやめた。もはや自宅という名の箱は、安く仕上げられた舞台セットのようなものだ。その役割は、家族以外の人々にバックヤードを見せないようにすること。観客たちに薄暗い舞台裏を見せないのは、縁者側のルールだから。
 我が家の舞台裏は、惨憺たるものだ。玄関のドアを開け一歩中に入ると、そこはゴミの山、山、山。弁当、冷凍食品、おにぎり、サンドウィッチ、スナック菓子、ペットボトル入りのジュースやお茶、缶ビール、アイスクリーム、雑誌などの残骸たちで真っすぐ歩くこともままならない。電気を点けた瞬間にカサカサと虫が隠れる音が、複数方向から聞こえてくる。
 僕がこの家に毎日帰る理由は何だろう。もはや居所なんてない。澱んだ空気に窒息しそうな我が家に何も期待できないのに。


この家に越してきたのは、ちょうど3年前の今日、4月1日だった。
「明日も新しい家だよね?エイプリール・フールじゃないよね?」
お気に入りのテディベアーを抱えた娘が、妻にたずねた光景を昨日のように覚えている。小さな庭のほとんどを覆っているウッドデッキで、引っ越し祝いをしようとバーベキューをした。翌年も翌々年も4月1日は、「引っ越し記念日」として、バーベキューをしたな、昨年までは。4月1日は、早めに仕事を切り上げた。食材を買い込んで帰宅すると、妻と娘が火を起こして待っていたな、昨年までは。


 今年も仕事を早めに切り上げ、帰宅途中にある小さなスーパーマーケットに立ち寄った。
「ばかみたいだろ?笑うなら笑え。」
パック入りの牛肉を詰めながら、唇を動かさずに悪態をついてみた。キャベツ、ピーマン、シイタケ、もやし、チャンポン麺、タレ・・・望み薄の「引っ越し記念日」でも、僕は僕の役目を全うするだけだ。それが記念日というものだ。
「ありがとうございまーす。抽選券でーす。」
レジで3252円を支払うと、1000円ごとに配布しているという抽選券を3枚手渡された。1等の賞品は、50インチ超の液晶テレビ。現在の我が家には置き場所がありません。
 抽選会は、スーパーマーケットの出入り口のすぐ脇で行われていた。赤白の横断幕の前に、ピンク色のトレーナーを着た50台の男性が、何が嬉しいのかニコニコして待っていた。目が合うと、大げさに手招きする。
「おつかれさまでーす。こちらへどーぞー。豪華景品でーす。」
スルーするつもりだったが、あまりに明るい強引さに断るに断れない雰囲気を感じた。
 今夜、これからの命運を賭けてみるか。
 折りたたみの長机に設置された小箱の中に手を突っ込み、3枚のくじを取り出す。ここで当たった方が吉なのか?それとも、ここで運を使ってしまうべきでないのか?50インチの液晶テレビなら欲しいぞ。
 少しばかりの念を込めて、3角形に折られた3枚の紙を店員に渡した。店員は、手なれた動作で3枚の紙を破り、中に書かれている文字を順に確認した。にこっと笑い、傍らに置いてある大太鼓を3回打ち鳴らした。ドン、ド、ドン!
「めずらしや、めずらしやー。おめでとうございまーす。3等3枚でーす!」
そう言うと、こぶし大の白い箱が3つ差し出された。大きさから推測すると、どうも液晶テレビではないようだ。
「何が入っているのですか?」
「防災グッズです。便利ですよ。」
「防災ですか・・・あはは、ありがとう。」
 家に帰り着いた瞬間に大地震が起きて、妻と娘、そして僕の3人は、たまたまくじ引きの景品でもらった3つの防災グッズをそれぞれ手にして一致団結、家庭崩壊していたことなど忘れて、家族で立ち向かっていく中で、家族の絆をより強固なものにしていく・・・ことはないだろう。むしろ、天変地異でこの世の中が消滅してくれた方が、僕ら家族は楽になれるかもとさえ考えてしまう。3252円分の食材が入ったビニール袋にそれらを放り込み、僕は自宅に向かった。

 桜並木を歩き続けると、正面にひときわ大きな桜に突き当たる。そのT字路の手前右手側が我が家だ。我が家のリビングを灯す蛍光灯は、3日前からタマ切れを起こしかけている。閉めきったカーテンを隙間からこぼれる蛍光灯のチラチラした点滅は、まるでSOSを発信しているようだ。
 決して期待してはいけない、期待するなと自分に言い聞かせながら、自宅に歩を進める。バーベキューの準備をしているなんて、まさか、まさかのまたまさかだ。食材の入ったビニール袋って、こんなに重かったっけ?このまま、放り投げたくなる。何もかも面倒なんだ。歩くのさえ、面倒だ。急いで帰ったりするもんか!
 ゆっくり、ゆっくり歩いたつもりだが、抵抗むなしく玄関前に到着したようだ。何も期待してないぞ。何も期待しないぞ。
 鍵を差し入れた。ん?ドア向こうに何か気配を感じる。先方も同じく、僕のことに気付いたみたいだ。永遠の2,3秒間とでも言えばいいのだろうか?長いようで短い、短いようで長い“一瞬”の間に、僕の頭の中はフル回転した。思いをめぐらせたことは、僕がすべき次の行動についてだ。このドアの向こうに存在する未来を楽観的に予想するのは、簡単なことではない。ウッドデッキに火は起きていないようし。
 情けない男だと笑うがいい。導き出した答えはこうだ。時間稼ぎをすべし。
 右手に持った鍵を差し込んだまま、言ってみた。
「ただいま。」
返答はない。でも確かに誰かいる。ドアの向こうにいる誰かが息をひそめて、こちらを凝視している。
「ただいま。」
もう一度、言ってみた。変わらず返答がないので、右手に力を込めて、鍵を廻そうとしたその時、内側からロックを外す音が聞こえた。
「おかえりなさい。」
妻だった。窪んだ目で、怯えたように僕を見つめる。僕らは生き別れた兄妹が数十年ぶりに再会したかのように、お互い発するべき言葉を探した。
「お、おかえりなさい。」
「ああ・・・ただいま。」
「・・・おかえりなさい。」
「ただいま。」
妻は、視線を下に向け、意を決したように言った。
「ごめんなさい。まだ、準備出来ていない。」
僕は、食材の入った袋を掲げて
「これ?」
「そう。」
「なんか、嬉しい。覚えていたんだね。」
「どうしよう。どうしたらいい?」
「明日でいいんじゃないか?」
「こんなこと言えた義理じゃないけど、出来れば今日したい。」
「・・・・・・。」
「あの娘が言ったの、パパはきっと買ってくる。」
 視線を感じて、階段に目を向けると、そっぽ向いて耳だけこちらに向けている娘が最上段に腰かけていた。
「覚えていてくれてありがとうな。」
僕は数ヶ月ぶりに娘に声をかけた。娘は意を決したように立ち上がり、ふてくされて階段を下りてくる。妻の左斜め後ろに立ち、僕の持つ荷物を覗き込む。この半年間で身長が伸びたのかもしれないな。背伸びすることなく妻の肩越しから荷物を見下ろす娘に荷物を渡した。
 袋から白い小箱が落ちそうになった。娘は、ひゃっと掴み、カタカタと振った。
「何これ?」
「ああ、スーパーのくじでもらった。防災グッズらしい。」
娘はこぼれ落ちそうになった白い箱を開け、中身を取り出した。じっと見る。
「これはいいかも。」
ぷっと吹き出した娘は、妻の背後に回り、こぶし大の防災グッズを妻の頭にセットする。
「スイッチオーン。」

 それは、携帯型のヘッドライトだった。
 妻の頭で光るそれは、僕が立つ玄関をやさしく力強く照らした。久々の家族3人での会話、たったそれだけのことだけど泣かずにはいられない。ヘッドライトで妻と娘はまばゆいばかりのシルエットだ。涙でぐしゃぐしゃになっている自分ばかりを見られて照れくさい。
「もう二つ入ってるはずだよ。」
僕の言葉に頷くと、娘は、それぞれの白箱からヘッドライトを取り出し、ひとつは僕に、もう一つは自分の頭にセットした。 
 玄関で久しぶりの対面をした僕ら3人の頭には、それぞれヘッドライトがセットされている。お互いに照らし合い、泣いた。これから笑うための表情筋を必死にほぐすように泣いた。

「パパとママ、頭、こっち・・・そうそう、ちょっとそのままにしてて。」
娘は、僕と妻の頭にあるヘッドライトに手をやり、なにやら操作する。
カチッ ジャ ザザザ「・・・今夜は、ドリカム特集でーす。」
さすが防災グッズだ。僕らの頭にあるヘッドライトには、ラジオ機能が付いていた。娘は、自分のヘッドライトにも手をやり、チューニングを合わせた。同じ放送を至近距離にある3台のラジオで聴くのは、なんだか不思議な感じがした。電波に乗ってやって来た音が渾然一体となって、時間や距離に対する感覚を狂わせるようだ。楽しいことだけを考えられるようになる。やったことないけど、麻薬に乗っかったような気分だ。
「よしよし。ドリカムに合わせて準備開始。」
と言って、娘はスタスタと床に散らばったゴミを拾い集めていく。
「よし、やるぞ。」
妻の肩をポンと叩いて、靴を脱ぎ、僕も娘に続く。
「ゴミ袋を持ってこなくちゃね。」
背後で妻の振り返る音がした。
 
 吉田美和の伸びやかな歌声が、僕らの全身を心地よく通り抜けていく。
 なにはともあれ、リスタートだ。