町がおぼれてしまいそうなくらい記録的な長い梅雨が明けると、助走なしに真夏がやってきた。
今年の夏は、おそろしく暑い。

 わたしの住む自宅の隣に、猫の額ほどの小さな空き地があっ
た。そこに、ミスチョイスとしか思えないお店がオープンした

ガソリンスタンドだ。
時代に反してとても小さく、給油する場所が1箇所しかない。
そして、地面を含めてあらゆる場所が水色のペンキで塗りつく
されていた。たった一人のスタッフ・・・多分、オーナーであ
ろう男性が着ているツナギも水色だったので、よほど水色が好
きなんだろう。夏空の色みたいで、強烈にきれいだった。
ただし、なんとなくイレギュラーで入りにくく感じた。他のガ
ソリンスタンドとはあまりに違う。自宅の隣であるから便利だ
ろうけど、給油するスタンドを変更しなかった。さらに、そこ
に車が止まっているのを見たことはほとんどない。車で通りす
がりに見ると、彼はいつも給油スタンドの脇にパイプ椅子に出
して座り、静かに小さな本を読んでいた。

 勤め先の印刷会社から自宅へ戻る途中、車の中に微かないや
な匂いが鼻についた。わたしの車は、平成元年式の濃紺のフィ
アット・パンダ。ポンコツと言えばポンコツで、故障も多く燃
費も小型車にしては良くないが、好きだから仕方ない。電気系
統が弱いので、夏でも長時間のエアコンはご法度だ。あまりに
暑いから、ここ最近でエアコンを使いすぎたのかもしれない。
 エアコンをオフにして、窓を開け、なるべく急なアクセルを
踏まないように運転を続けた。行きつけの修理工場は、会社か
ら自宅へ向かう方向とは反対側にある。今日は、早く家に帰り
たい。くたくただからだ。
小さな印刷会社である我が社は、急な大量の製本作業のおかげ
で昨日からフル稼働している。わたしは、出来上がっていく本
をダンボールに詰め、台車に載せて倉庫に持っていくことを一
日中繰り返した。肩から腰、足にかけて1枚の錆びた鉄板のよ
うだ。
「お願いだから、家まで持ちこたえて・・・。」
 明日は早起きしてバス通勤にすることにして、今日は自室に
帰って早く横になりたい。そう思って、窓を全開にしてパンダ
をやさしく走らせた。
自宅まで、あと1キロだ。

 自宅に到着するために通過すべき最後の信号は、黄色だった
。「ごめんなさい、今、わたしは非常事態なのです。お許しく
ださい。見逃してください。」と信号の神様に念じながら、強
くアクセルを踏み込んだ。
 ・・・・・・のがいけなかったのだろうか?黄色信号で止ま
らず、加速して交差点を通過した瞬間、ボンネットから白煙が
上がり始めた。もうもうとした煙は、瞬く間に視界を遮るほど
噴出した。
「わわわ、どうしよう、どうしたらいいの?」
ミラーで後方を確認したところ、後続車はいない。ブレーキを
踏んで、車を停めるべきなのか?いや、とにかく自宅に戻るこ
とを最優先に、このまま車を走らせるべきなのか?どうしたら
いい?どうしたらい?分からないまま、身体は固まった。身体
が固まっても、車は進む。白煙が上がる。
あと、300メートルくらいかな。爆発なんてしないよね?ね
?ね?ね?

プシュン・・・・・・

 エンジンが止まった。アクセルを踏んでいるのに止まった。
自宅まであと200メートルといったところだろうか。古い車
なので、エンジンが止まると、ハンドルだけでなく、ブレーキ
ペダルまで重くなってしまう。ええい、なるようになるさ。こ
のまま、自宅に向かって直進してやる。
 わたしは、目を見開いて前方を見据え、重いハンドルを両手
でがっしり握り締めた。ブレーキペダルは、左足の上に右足を
添え、何かあったら両足で踏ん張れるようにスタンバイ、少し
でも車にかかる体重を減らすイメージで、踵を軸にして腰を浮
かせてみた。
 グングンと自宅が近づいてきた・・・のは、ほんの少しだけ
だった。最後の信号から自宅までは、ゆるやかな上り坂・・・
あっという間に速度がダウンしていった。ペース配分を間違え
た長距離ランナーみたいに。
 そして、わたしのパンダは完全に停止した。ブレーキペダル
を両足で思いっきり踏ん張っているわたしは、車の中で斜めに
“気をつけ”をしている間抜けな体勢で固まっているしかない
。この上り坂に対して、どう対処すべきなのか?途方にくれる
とは、こういう状態だ。足を離すと、車は自然と来た道を戻る
・・・つまり、後退してしまう。どうしたらいいのだろう?ど
うしたらいい?携帯電話?自宅にいるはずの親に電話してみよ
う。電話はどこ?
携帯電話は後部座席の置いたバッグの中にある。最悪だ。どう
身体をひねっても、手を伸ばしても、歯を食いしばっても届か
ない。このまま、誰かが助けてくれるのを待つしかないのか?
ヘルプ・ミー!!!!だ!
「あの・・・何しているんだ?」
開けた窓から入り込んでくるまでになった白煙の中から声がし
た。両足を踏ん張ったまま、声のする方に視線をやった。スー
パー・マジシャンの登場シーンのように、白煙の先に水色の男
性がいた。ガソリン・スタンドのお兄さんだ!車の専門家だ!
救世主だ!
「いえ、こう・・・車で帰る途中、煙が出てきて、こう・・・
家はすぐそこなんですけど・・・あと、もう少しのところでエ
ンジンが止まってしまって・・・なんとか家まで着かせようと
頑張ってみたんですけど・・・やっぱり駄目だったみたいで、
ここで止まってしまって・・・止まったのはいいんですけど・
・・ここ坂道なもんで・・・。」
 彼は、にっこり笑い、手のひらを斜めにしてこう言った。
「いや、そうじゃなくて・・・何故、斜めになっているんだ?

わたしだって、好きでこんな格好をしてるわけじゃないのに!
「だって・・・足を離すと、車がバックしてしまうから。」
「あはは。エンジン落ちると、ブレーキペダルって重いという
か、固いでしょ?」
だから、笑ってる場面じゃないでしょ。早く、なんとかしてく
ださい!
「固いです・・・わたし、どうしたらいいのでしょう?」
「こうしたらいいのです。」
彼は、全開にした窓からわたしに覆いかぶさるように上半身を
入れてきた。水色のツナギからは、乾いたオイルのにおいがし
た。
そして、彼はサイドブレーキを思いっきり引っ張った。

ギギギッ!

「失礼」と声を出しながら、上半身が窓の外に戻っていった。
ツナギの擦れる固い音と、オイルのにおいが車内を通り過ぎた

「はい、もう大丈夫。」
突っ張った足の力を抜き、シートに崩れ落ちた。
あはは、馬鹿みたいだね、わたし。サイドブレーキを引き上げ
るだけでよかったんだよね。なぜ、気がつかなかったのだろう
。恥ずかしい・・・。
「すみません。ありがとうございます。助かりました。」
「いえいえ、どうも。ところで、これ、どうします?」
彼は、ボンネットを指して言った。
「どうしたら、いいのですか?」
「そうですね、まあ、ここで立ち話もなんですから、スタンド
に入れてもいいですか?」
「え?あ、はい。でも、エンジン止まってますけど。」
「後ろに廻って押すので、サイドブレーキを外して、ハンドル
をきってもらえますか?」
「はい・・・そうするのは構いませんけど、大丈夫ですか?そ
のまま、後ろに下がったりしませんか?危なくないですか?」
「まあ、やってみましょう。後ろに下がったら、ブレーキかけ
てください。あ、斜めになる方じゃなくて、サイドブレーキを
引く方のブレーキね。」
さすがに、そこは間違えません。了解。

 彼が押してくれたわたしのパンダは、無事にガソリンスタン
ドへ入った。小さな敷地の真ん中で、わたしは、きっちりサイ
ドブレーキを引いて、車から降りた。
「ちょっと、失礼します。」
彼は一言告げて、車内に入り、なにやら探している。

スパン!

ボンネットが跳ねる音がした。彼は素早く車から降り、ボンネ
ットをフルオープンさせた。

ブハー!

閉じ込められていた白煙が、一気に放たれる。白煙の向こう側
に見えるはずの彼の姿が見えない。わたしの車は、どうなって
しまうのだろう?
「大丈夫なんでしょうか?」
「大丈夫じゃないですね。」
彼は、腕をしかっと組んだまま言った。
「どうなるんですか?」
難しい顔をしたまま、彼は、首を何度か横に振る。そして、組
んでいた腕をほどいて、右手の人差し指で空を指差した。
「ここを起点にした入道雲が発生すると思われる。」
大真面目な彼の表情がまたおかしい。数秒間の沈黙の後、白煙
が上昇していく方向を指差しながら、笑ってしまった。
「それは、大変ですね。」

彼の笑顔がまぶしい。かなりオクテな方なわたしだけど、彼の
ことを好きになったみたい。それが自然なことで、必然であっ
たかのように恋に落ちた。水色のガソリンスタンドから沸き昇
る白煙のように、わたしの彼に対する想いは、夏空高く舞い昇
った。

「オーバーヒートという状態かな。水を補給してこのまま、ゆ
っくり車を冷やしてあげれば大丈夫だと思う。一応、後でホー
ス類やいくつかの部品の点検をしておくよ。」
「はい、お願いします。」
「では、3時間くらい預からせてもらっていいかな。一度、帰
宅されていいですよ、暑いから。」
彼は、わたしの家の方を指して言った。知っていたんだ、わた
しのこと。