わたしの家の稼業は、銭湯だ。父親の父親の代から続く、創
業70年の老舗の部類に入る鄙びた銭湯。のれんをくぐると番台
があり、そこに座る父親に小銭を渡して入場する昔ながらのス
タイルを守っている。番台では、父親はいつも本を読んでいた
。わたしが就職先に印刷会社を選んだのは、番台の中でいつも
本を読んでいた父親の姿が好きだったからかもしれない。
水色ガソリンスタンドの隣が、家業である銭湯で、その裏に自
宅がある。自宅に戻り、鞄を置く。オーバーヒートを起こした
車のおかげで汗だくだ。まずはお風呂に入ろう。自宅にあるの
はシャワーなので、今日みたいな日は、銭湯のお風呂に入る。
銭湯と自宅は、3メートル足らずの短い廊下で繋がっていて、
そこの壁にはビー玉ひとつ分くらいの小さな穴があいている。
壁に使われている板の節部分が、20年間くらいポロッと取れた
ままになっているのだ。小さな頃、銭湯側の建物への行き帰り
、必ず、この穴から外を見ていた。そこから見える景色は、外
で見る同じ景色と比べて鮮やかな色彩だったから。
わたしは、その廊下を通って父が番台に座る銭湯に向かった。
夕方6時の夏の日差しが、薄暗い廊下の小穴から柔らかに差し
込んでいる。そうだ、この穴の向こう側はガソリンスタンドだ
。わたしのパンダと彼が見えるかもしれない。久しぶりに穴か
ら外を覗いてみた。
 車から出る白煙は、かなりその量が減っていた。彼は、車の
横にいつもの椅子を移動していた。そして、すやすや眠る赤ん
坊を眺める母親のように、そこに座り、穏やかに本を読んでい
た。
 何かの気配を感じたのだろうか。おもむろに彼の顔がこちら
を向いた。この上なく驚いた。わたしは、壁から顔を離し、小
穴を手のひらで塞いだ。心臓はバクバクと音を立て、顔が赤く
上気していくのがはっきりと分かった。まるで10代の小娘だ

 よくよく考えるまでもなく、彼のいる位置から小穴を通して
わたしを見通せるわけがない。そんな当たり前のことに気づき
、小穴からもう一度彼を覗いてみた。
 彼はこちらに向かって、満面の笑みでピースサインを送って
いた。
 見えてるの?
 照れくさくて、照れくさくて・・・小穴に向かってピースサ
インを送り返し、小走りで銭湯側の建物に入った。

 どれほどゆっくりお風呂にいても、わたしの場合はせいぜい30
分だ。車を取りに行くのは、3時間後。残り2時間30分が待ち
長い。何をして待とうか。一日の終わりのお風呂に入ったその
後に、ばっちりメイクして行くのも、なんか気持ちを見透かさ
れそうで恥ずかしい。すっぴんで行くのも、なんだかなあ。む
むむ・・・これが、“女心”というものなのだろうか?湯船の
中で、足を伸ばし、腕を組んだまま天井を見上げて考えた。
あれ?この感覚どこかで感じたよね・・・そうか、さっきのア
レだ。彼と初対面の時の体勢。ブレーキペダルを踏んだまま、
斜めに身体を突っ張っていたんだよね。あれは、恥ずかしかっ
たなぁ。
「なにぞ、いいことがあったのかい?」
 サヨばあちゃんの声がした。サヨばあちゃんは、うちの常連
さんで、わたしが小さな頃からの大の仲良しだ。
「それにしても、今日は暑かったねえ。仕事をするのも大変だ
ったろう。そんな難しい格好してニコニコせんで、もっとゆっ
たりつかればよかろうもん。」
「あはは。そうですね。」
体勢をたてなおし、サヨばあちゃんの方を向いた。
「サヨばあちゃん、ちょっと聞いてもいい?」
「なにごとかい?難しいことは無理だよ、分からんから。そう
じゃなければ、どうぞ。」
わたしは、今日あったことを話した。車が止まったこと、彼に
助けてもらったこと、車を預けていること、小穴から見られて
いたこと、彼のことを好きになってしまっただろうこと、2時
間30分をどうやって過ごしていいか分からないこと。
「ああ、そういうことかい。簡単なことだよ、簡単なこと。」
「え?簡単なの?」
「簡単さ。」
「どうしたらいいの?」
「今すぐ、お風呂から上がって会いに行ったらいいがね。」
「行くって・・・車はまだなおってないかもしれないのに。」
「“真夏の恋は蝉しぐれ”と昔から言うんだよ。」
「蝉しぐれ?」
「そう、蝉しぐれ。しぐれというのは、激しく打ちつける通り
雨のことを言うんだけど、蝉は夏の短い間を狂ったように鳴い
てパタッと静まるよということさ。」
「じゃあ、夏の恋は長続きしないということ?」
「そういう風に思っている人が多いのだけど、実は違うのよ。
蝉が地上に出てきて1週間くらいで死んでしまうのは知ってる
かい?」
「うん。」
「じゃあ、なぜ、あんなに鳴き狂うのか知ってるかい?」
「求愛のためかな。」
「その通り、最愛のパートナーを探しているんだよ。寿命が短
いからというのもあるんだろうけど、それよりも“真夏に始ま
る恋愛が最高なこと”と“真夏が短いこと”を知っているから
さ。短い真夏に一生涯を賭けた真夏の恋愛を始めるためなんだ
よ。真夏というのは、カッと暑いから愛や恋も盛り上がるもん
さ、蝉も人間も。」
「急がないと終わってしまうよってこと?」
「そう。真夏は短いんだからね。通り雨なんだから。」
「“真夏の恋は蝉しぐれ”かぁ。なんか、がんばってみようか
な。」
「がんばりなさい、がんばりなさい。若いんだから、遠慮なく
がんばりなさい。」
「ありがとう。サヨばあちゃん。」
「はいはい。アイスキャンディーくらい持って行きなさいよ。
こんな暑い日に外で仕事をしてるんだから。」

 “真夏の恋は蝉しぐれ”・・・真夏の到来を待ち望んだ蝉た
ちの大合唱。真夏は通り雨か。よし、行くぞ。
アイスを持って、今すぐ会いに行こう。