「とうとう成功だ。」
 僕は漆黒の闇の中で凍える手に息を吹きかけるように小さくガッツポーズをした。

 広角生命新生財団付属研究所所長代行…これが僕の肩書きだ。所長代行と言っても、上司である所長はもういない。所長は死んでしまった。
 研究所は、地下250メートルという地上の光はまず届かない場所にある。ここへは一基だけ設置されているエレベータを使って出入りする。とは言うものの、上昇できるのはたった一度だけと聞かされている。地上の世界と遮断されているわけではないので、テレビやインターネットを通じて外の世界の情報は手に入る。だけど、ここから出て行こうとは思わない。テレビ番組でよくあっている地上世界のコンテンツである「旅行」「グルメ」「スポーツ」などに興味を持てないし、ニュース番組で見る戦争や災害に対する恐怖もある。僕には、この小さな世界で研究を行い、たまに音楽を聴いたり読書をしたりする方が合っているみたいだ。こんな僕のような生き方が、「ひきこもり」というのだろうか?よく分からないけど、そのことを質問出来る相手もいないので、どうでもいい。そう、ここはやるべきこと以外は、どうでもいいで済ますことが出来る場所なのだ。少なくとも、僕にはそれが合っていると思う。
 さて、ここで研究しているのは、地下植物の培養技術の研究・・・というか開発だ。植物が生きていることは子供でも知っている。生きている植物は、根から栄養分や水分を吸収し、光合成という名の呼吸をしながら成長していく。光合成のメカニズムはとても不思議で、太陽からのエネルギーを奇跡的な変換システムによって別のエネルギーに置き換え、呼吸して生きている。つまり、太陽光線もしくはそれに代わるものがなければ生きていくことは不可能なのだ。
 地下250メートルの場所にある研究所には光源がない。ほぼ真っ暗な環境で、あるかないか分からないくらいの赤外線のみが、ぽつぽつと設置されている。そんな暗闇の中で所長と僕は生活してきた。光源がなければ植物は光合成することが出来ず、育たない。その育たない環境で育てることのできる植物を開発するのが、この研究所の課題なのだ。もしも、その技術開発に成功したとして、何がどうなるのか僕は知らない。ただ、死んだ所長によると、蒸気機関の発明や、石炭や石油によるエネルギー革命に匹敵もしくは超越するものになると言っていた。人類を救済するための研究だとも言っていた。それを聞くたびに少なからず僕はわくわくした。
 しかし、所長は志半ばでこの世を去った。志半ば?いや、実は所長はあきらめていたのかもしれない。数千、数万の実験をしたところで、解決の糸口さえ見えてこなかった。光源のない場所で植物を育てることは到底無理な話だと思う。光源のない研究所に、一筋の“希望”という名の光はいつまでたっても見えなかった。
 また、所長は、多分僕の父親だと思う。多分としか言いようのないのは、物心ついた頃にはこの地下研究所で二人きりで、言葉を覚えると同時に“パパ”ではなく“所長”と呼ぶようにインプットされたからだ。父親を父親であると認識するのは本能からでなく、学習によって理解する。“パパ”と呼ぶように教えられた大人=父親というわけだ。僕には、“パパ”でなく“所長”しかいなかった。ただ、それだけのことだ。まあ、“パパ”であろうと“所長”であろうと、僕にとって師であり親であることは確かだ。研究所で育ち、一度も地上に出たことのない僕にとってこの研究所がすべてであり、また所長が僕にとっての社会そのものでもあった。
 ただ、その社会との関わりの中で、僕はどうしようもなく不安に苛む期間が幾度となくあった。それは、【種】に関することだ。この研究所には、研究所ならではの蔵書に満ちている。コウノトリが赤ん坊を運んでくる絵本から、ダーウィンの進化論に関する書物、果てはDNA配列に関する最新の論文までが100坪を超えるスペースにぎっしりとそして整然と並んでいる。それらを読み進むたびに僕は自分がとても不完全な空っぽの固体であることに打ちひしがれるのだ。

僕はどこからやってきたのか?

 仮に所長が父親であるとして、母親はどこにいるのだろうか?もしかすると、いないのかもしれないとも思う。いや、いるにはいるのだろうが全くイメージ出来ない。生まれてこのかた僕が知っている人間は所長一人だから。せめて父親だけでも知っておきたいと思うのは自然なことだろう。
 科学的に親子関係を調べることは簡単だ。DNA鑑定をすれば99パーセント以上の確立で親子関係の正否が認定出来るし、その装置や試薬もこの研究所には備わっている。実は、その実験をやってみたことがある。結果は、99パーセント以上の確立で、僕と所長は親子関係にあると出た。ほっとしたような、まさかと思うような・・・何とも言えない気持ちになった。
 だけど、僕の父親に関する疑問は完全には晴れたわけではない。
 この研究所のテーマは、ありえない植物を開発することだからだ。つまり、自然界の摂理を覆すことが唯一絶対のテーマなのだ。そこに身を置く僕にとって、DNAデータを操作することは簡単ではないけど不可能でもないことを学んでしまっていた。つまり、父親が所長でなくても所長と僕のDNA配列を一致させることは、気の遠くなる作業の末には可能なはずだ。絶対的な真実なんて存在しない。親子関係しかり、DNA配列しかりだ。非常識が日常の中に組み込まれた環境で生活すると、何が起きても驚かなくなるし、何事も疑ってしまうようになってしまう。悲しき研究者の性(さが)といったところか。母親がいなくても僕がここにいる可能性を否定出来ないし、もしかしたら父親もいないのかもしれない。
 科学的に真実を追求しようとすればするほど、次々と疑問点が見つかり、答から遠ざかるとは皮肉なものだ。科学とは残酷なものかもしれない。
 ある朝、何気ない日常を装って、そのことを所長に尋ねてみた。鑑定結果を持って。
 所長はこう言った。
「僕にも分からない。最近、自分が誰なのかさえ分からないというか、忘れてきたような気がするからね。」そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべて、常に決まった場所に置いてあるお茶を一口飲んだ。
 僕は父親探しの旅をあきらめることにした。ここは、そんな場所だ。自然の摂理というものを基準に物事が進んでない。
 
 その翌日、所長は亡くなった。何千種類の植物の種が入ったシェルターに埋もれるようにして。穏やかな死に顔だった。
「お父さん、さようなら。ありがとう。」

 僕はひとりぼっちになってしまった。そして、はたと考え込んでしまった。一体、これから僕はどうすればいいのだろうか。このまま研究を続けようにも、機械のいちパーツのように所長から指示され、与えられた仕事をたんたんとこなすだけだった僕には無理そうだ。
 では、エレベータに乗って地上に出るか・・・いや、自分の素性さえも知らない成人男性が生きていくには、かなり厳しそうな選択だ。ううむ。
 僕という存在を僕自身に与えてくれていたのは、実は所長だったんだな。所長がいなくなった瞬間から、僕は僕でなくなり、僕というもの自体がひどくぼんやりしてきたような気がする。誰の目にもとまることなく、花を咲かせることもないまま、生まれ朽ちていくようなアスファルトの隙間から芽を出した小さな小さな名もない雑草のようなもの。
 生きていく価値って何だろう?生き続けることの意味って何だろう?
 幾晩も…光の届かないここには朝も昼も夜もないのだけれども、まあ幾晩分もの時間、僕は希望がわずかに混じった絶望の中で微動だにせず過ごした。数日間分の不眠からくる疲労感は不思議となかった。ただ、高ぶった神経がきりきりと音をたてて巻きあがっていくのを自覚できた。痙攣を起こした瞼(まぶた)のせいで、まばたきが出来ない。眼球は、乾ききった大地のように干上がり、視界というものを失いつつある。僕の体温はこれまで感じたことがない熱量を発し、暗闇の研究所内で発光しているような気さえする。このままじゃいけない。暴走した交感神経を鎮めなければ壊れてしまう。もはや、僕の身体は僕のものではなくなってしまったようだ。何一つ、思ったように動いてくれない。終わりなのか、このまま終わってしまうのか?身体中のあらゆる細胞が、音をたてて弾けていく。噛みしめた奥歯が顎の骨に沈み込み、ストッパーを失った前歯は粉々に砕かれる。その破片が、口の中の粘膜を無数に傷つけ、溢れんばかりの血で窒息しそうになった。
 何か音がする・・・低く太い音が近づいてくる。共鳴を起こした鼓膜が、身体全体を揺らす。お迎えが来たのだろうか?持続性のあるその音は、どんどん近く大きくなり、研究所全体を打ち抜くように大きく揺らした後、ぴたりと止んだ。
 恐ろしい程の静寂が、闇を飲み込んでいった。そして、その先にあるエレベーター・・・動くはずのないエレベーターの扉が、静かにゆっくりと開いたのが分かった。乾いた眼球は、その内部にあるものを明確に識別出来なかったが、微かな熱が伝わってきた。何かがこちらに向かってくる。その微かな熱は、確実にこちらに近付いてきている。研究所の固い床を聞いたことのない音と共に向かってくる。

コツ  コツ  コツ  コツ  コツ  コツ ・・・