それは、金属音に近い濁りのない音だった。死へのカウントダウン・・・嫌いな音じゃない。
 熱として感じていたそれは、少しずつシルエットとなってその存在が明らかになってきた。緩やかな曲線で描かれたシャープな輪郭・・・人間だった。どうも女性のようだ。子宮の中の胎児のような姿勢で丸まった僕の目の前で立ち止まった。見たことのない靴を履いてきた。細くて燃えるように赤い靴。それは、爪先をわずかに覆っているだけで、あとは甲と足首の部分に巻きつけられた革ひもで維持されている。何よりも、踵から床に伸びた10センチほどの細いピン状のものが、僕の履いている靴にはないものだった。固く尖ったそれが床を叩く音が、あの金属音の正体だったのだろう。他人の足を間近で見たのは初めてだったが、それはとても不格好だった。人間の祖先が海から陸に上がったときから進化してないと確信出来るほど、恥ずかしいフォルムをしている。その恥ずかしい外形を覆い隠すために、異質すぎるほど美しいこんな変わった靴を女性という生き物は履くのかもしれない。
 この足を触ってみたい。ずっと、ずっと、ずっと触っていたい。触りたい・・・。
 強張る肉体と極限の意識の中で、繰り返し繰り返し願ってみたが、僕の身体は何一つ自由になることはなかった。赤い凶器のような靴は、残酷なまでに僕の眼前にある。手を伸ばせば届く希望も、今の僕には叶わない。
 赤い靴のピンの先が、わずかに動いた。床から2センチくらいのところで、ぴたりと止まる。目の前の女性の手が震える僕の頬を撫でる。膝を折った女性の右手だった。
 どれくらいそうしていてくれたのだろうか。僕の身体から自由を奪っていた痙攣は、少しずつその力を失っていった。ただ、引き攣ったような緊縛感と引き換えに、僕の身体は虚脱感に襲われた。ほとんど力が入らないのだ。彼女が撫でる頬が僕の全てで、目の前に見える赤い靴が女性のすべてであるような錯覚を覚え、その状況の中を僕はゆったりと泳ぎ続けた。
「もう、大丈夫。」
彼女のもう片方の手のひらも、僕の頬に添えられる。遠い記憶の彼方にかすかに残っていた安らぎという芳香とともに、僕の視界は再度、闇しか見えなくなった。口唇が、しっとり柔らかく塞がれている。
 僕にとって、生まれてはじめてのキスだった。
 10秒、20秒、30秒・・・さっきの遠い記憶の彼方に残っていた安らぎという芳香は、母親のそれかもしれない。はじめてのキスは、懐かしさを感じたから。彼女に誘導され、僕の右手は彼女の頭を、左手は腰から背中にかけて抱きしめていた。
「少し、休むといいわ。」
時間をかけてゆっくりと身体を離して、彼女はそう言った。僕はおぼつかない足取りで立ち上がり、所長が入っているカプセルに向かう。所長は、変わらず安らかに眠っている。
 ここはどこだ?僕は誰だ?彼女はどこから来たのか?これからどうするのか?
 僕は、カプセルの脇にもたれた。数歩分だけ先にいる彼女の足元・・・赤い尖った靴だけが、ぼんやり見える。少しだけ眠れそうだ。
 それは、これまで感じたことのない深い導入から始まる眠りだった。

 どのくらい眠ったのだろうか。僕は軽く緊縛された心地よい不自由さの中、目を覚ました。眠っている間に泣いたのだろうか?さっきの彼女の柔らかな手の感触が残る頬は、そこだけ滝に打たれたように濡れていた。目を開けてみた。涙に霞んで見える研究所は、いつにも増して真っ暗だ。それにしてもおかしい。いつもと何かが違う。
 驚いた・・・驚くべき光景が広がっていた。
 所長の身体から、幾重にもツタが伸びていたのだ。それらは、僕の身体を含め部屋中のものを呑みこみ壁を伝い、天井まで研究所全体を覆っていた。淡いベージュ一色の研究所の壁や床は、そのツタでもはや真っ黒で、まるで巨大生物の胃の中にいるような感覚だ。日本では、古来、このツタの樹液を“アマヅラと”呼び、甘味料として使っていたという。そう言えば、むせかえる様な緑のにおいの中に、かすかに甘い香りがする。
 僕は、なんだか愉快な気分になり、ツタが絡まる手足を軽く動かしながら、いとしのエリーのサビ部分だけを繰り返し繰り返し歌った。
 何かがはじけるような、ごく小さな音が部屋の中に響いている。パチ…パチ…パパパパ…チチチチ。音はレコードノイズのように弾け続けた。僕は歌うのをやめ、その音のする方向を探し出すべく耳に全神経を傾けた。音は一方向から聴こえているのではなく、部屋中のあちらこちら聴こえてくるようだ。
 壁、床、天井…そして僕。
 その音は一向に鳴り止む気配を見せない。それどころか、倍音に倍音を重ねるように研究所の中で増幅され続けた。もはやハウリングを起こしそうな勢いだ。それと同時に、真っ黒になってしまった部屋中の光景が変わっていった。
 小さな小さな白い粒のようなものが点灯しはじめたのだ。
 チカチカと点いては消えるその白い点は、弾ける音ともに増えていく。それは、光一つ届かない新月の夜を覆う満天の星空のように白く光り、じきに天の川のように隙間を埋めていき、とうとうすべての空間を真っ白に塗りつぶしてしまった。まばゆいばかりの白い闇だった。
 白い点の正体は、ツタに咲く花だった。花弁さえ白い、小さな白い可憐な花。何がどうなったかは分からない。所長が何十年もかけて成し遂げることの出来なかった光源のない環境下での植物が誕生した瞬間は、あまりにあっけなく訪れた。皮肉なことに所長の死後に。
 花は、暴力的に咲き続けている。と同時にツタの生長も止まらないようだ。僕の身体を這うように伸びるツタは、加速していく。巻きつき、拘束し、太くきつく締め付けてくる。悪くない、悪くない。
 目覚めた時、ツタで満たされ、真っ暗だった研究所は、いつしか白い花々に塗りつくされた純白の世界へとその姿を変えた。さらには花の上に花が咲きその白さは密度を増していく。白い絵の具に白を塗り重ねても白いままだ。しかし、眼前に覆いかぶさっていく白い花々は、僕の視界をさえぎり、さらに口や鼻をも塞いでいった。ツタの拘束力で身体の自由を奪われ、さらには呼吸することさえ拒まれていく中、僕の頭の中は、澄み切っていくようだった。視界の奥に残る赤い尖った靴・・・あのピンのような踵の先にあるものは、現実なのか幻なのか。

 ブーーーーーン

 彼女の仕業か、ツタの仕業か・・・エレベータの作動音が聞こえた。たった一度きりしか上昇することのないエレベータが遠ざかっていく。
 さようなら。
 もはや、何がどうなろうと構わない。白い花で埋め尽くされた僕の目には、もはや目を開けても何も見えない。2度目の漆黒の闇だ。花が開くクリック音は続き、押しつぶされそうなその重さとともに、僕はそこに溶けていくような感覚に興奮した。
 白く塗りつぶせ、この部屋いっぱいに。白く加速するんだ。何もかも白く白く。
 しんしんと時が流れ、僕の意識と赤いあの靴も白く塗りつぶされていく。