たった4年の間に彼が作った曲は1451曲。映画、テレビドラマ、CM、ゲームなどのBGMばかり。BGMは、「バック・グラウンド・ミュージック」の略であり、直訳すると「背景音楽」となる。背景としての音楽を1451曲作った僕は、一度たりとも「音楽家」として評価を受けることがなかったし、そう自覚出来る満足感もなかった。あくまで、クライアントにとって都合の良い「音楽屋」でしかなかった。少々、手抜きをしてもクライアントの要求から大きくずれた曲を作ったり、納期を大幅に遅らせたりしない限り、仕事の依頼は途絶えることはなかった。それなりのギャラを貰い、10代の頃からの夢だった小さくても個人レベルでは贅沢なスタジオも手に入れた。だが、同時期に彼は音楽制作をやめることばかり考えるようになっていた。書きたい曲を書いているわけでもない音楽を糧にしている自分の空虚感に追い込まれていったのだ。

 彼がクリニックを尋ねてきたのは、2年前の11月。便宜的にクリニックと呼んでいるけど、僕は医師免許を持っているわけじゃない。僕の仕事は、ものづくりをしている人々の『漂白』だ。アーティストと呼ばれる人々は、ドラッグに染まってしまうことが少なくない。ドラッグに染まると、そこから抜け出すことはなかなか難しい。ドラッグに常習性や依存性があり、心身に悪影響を及ぼすことは、広く知られている。しかし、アーティストにとってそれらは、そんなに問題じゃない。問題なのは、アーティストたち個人個人が欲しくてたまらない色や形や音の扉を開くための鍵であることなのだ。たとえば、画家が赤いバラを描きたいとする。考え付くあらゆる「赤」で描いても、その画家のイメージする「赤」が表現出来ない。イライラしたり、落ち込んだり、凶暴になったり…色を重ねれば重ねるほどそのイメージする「赤」から遠ざかってしまう。そんなときに、傍らにドラッグがあったら…。誰しも、その始まりは軽い気持ちからだ。たった一度だけ、一度だけ。


しかし、一度では終わらない。


ドラッグは、画家が欲する「赤」をより鮮明に見せてしまう。しかし、画家は、ドラッグを介して見ることの出来たその「赤」を手に入れることは出来ない。なぜなら、ドラッグは、「赤」の場所に画家を運んでくれるだけで、持ち帰ることを許してくれないからだ。持ち帰ることが出来なければ、ますます手に入れたくなる。手に入らないから、またドラッグをしてしまう。そして、手ぶらで帰ってくる。繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返す。「赤」は決して手に入らない。ドラッグは、悲しいほどに律儀なのだ。


 『漂白』の方法はいたってシンプルだ。ただ、ひたすら身体を洗う。カテキン成分が含有されたシャンプーで、文字通り髪の毛1本1本から、足爪の先までスタッフ4人がかりで洗う。回数は決まってないが、入所後しばらくは、1日に10回程度。時に皮膚をはがすように強く、時に金箔を貼るときのようにやさしく。禁断症状があらわれて苦しんでいようが、フラッシュバックで狂暴になっていようが洗う。強制的に脱皮させるのだ。


 彼にも同じケアを施した。洗って流し、流して洗う。少々ぐったりなったら、インターバルを設ける。『漂白』の処置の度に取り換えられるやわらかなリネンのシーツを敷いたベッドに横たわらせ、二人きりで話す。


「どんな感じ?」


「擦られ過ぎて体がしぼんだような気がする。」


「実際にしぼむんだよ。髪の毛以外の体毛は擦り切れてなくなってしまうし、表皮も一層剝がれていく。ひりひりするでしょ?」


「はい。でも、嫌な感じは不思議としないですね。気持ちいいわけでもないけど。」


「浄化していくのを望まない人はいない。ただ、それだけのことだけだよ。」


「・・・失礼な言い方になるけど、薬物を抜くのと、身体を洗うのって関係あるんですか?」


「結果だけを見ればある。だけど、ふたつが結びつくための因果関係は、ものすごく遠回りをしていると思う。もしかしたら、結びついてもいないのかもしれないね。」


「実際あるとして、因果関係とはどういったものなのかなぁ。」


「どうなんだろうね。これは仮説でしかないのだけど、ドラッグの心地よさは、肉体と自己の剥離によって起こるものだと思う。ダウナーであっても、アッパーであっても普段じゃありえない剥離の中にドラッグならではの興奮が詰まっているんだと思う。ドラッグをやりはじめの頃は、剥離の距離も短いからこちら側の世界に戻ってこられる。ところがある一定量のドラッグが蓄積されると、常に剥離した状態になるんだ、ほんの少しだけだけどね、感覚的には5ミリもないくらい。このステージに入ると、ドラッグに快楽だけじゃなくて不安が混じる。さらにドラッグを重ねて、20センチくらいの剥離になってしまうともうアウトだ。不安が強迫に代わってしまう。自己が肉体を認識できなくなるというか、こちら側じゃなくあちら側に自己が吸い込まれてしまっているんだ。あちら側の世界は、創造や再生といった生産性のあるものは一切認められていない。ただ、破壊あるのみのこわーい世界。」


「先生、なんか苦しい。」


「OK。漂白スペースで洗い流そう。」

 ただ洗い、洗う、洗う。


 ただ擦り、擦り、擦る。


 ただ流し、流し、流す。


 そして、眠り、眠り、眠る。

 漂白を必要とするクライアントは、3日3晩起きていることもあれば、眠り続けることもある。ずっと眠ってくれていたら楽だろうと思うかもしれないが、逆だ。暴れようが、泣きわめこうが生きているサインを発していてくれた方が楽だ。悪魔に支配されている者の睡眠は、かぎりなく死に近い。自己によるコントロールを失った肉体は、あまりに危ういのだ。また、眠っている間も『漂白』は続く。ダブルベッドサイズの浅い流水槽のような装置に寝かして、洗い、擦り、流す。


 彼は、81時間眠った後の深夜4時にベッドの上でこちら側に帰ってきた。


「おかえり。」


「あ、先生・・・、すみません、俺、もう大丈夫です。帰ります。」


 彼は、獲物を見つけた肉食獣のような目線で止める僕を制し、ベッドから降りた。


 が、81時間もの長い間、水分以外の栄養を補給していない彼はリノリウムの床に向かって前のめりに倒れた。それでもなお立ち上がろうとする様は、生まれたての小鹿そのままだ。


「すみません。降参です。まるで力が入らない。何か食べさせてください。」


「お腹空きましたか?」


「うーん、お腹空いたというより、身体の中が全部、スポンジになったみたいです。」


「では、食事を準備している間に漂白しましょう。」


 床に転がったままの彼は、力なく頷いた。

 ドラッグ以外の摂取は、ここでは自由だ。正しいフレンチから、ジャンクフードまであらゆるリクエストに応える。彼のリクエストは、『野外バーベキュー』だった。漂白を受けるクライアントたちは、かなりの確率で屋外での飲食を望む。それは、羽を傷めた鳥が大空を見上げ続けるようなものかもしれない。希望を失わない限り、鳥は空をフィールドにする。

 クリスマス前夜の深夜11時30分。スタッフによって、ビルの屋上にスタンバイされたバーベキューセット。漂白を終え、着替えた彼がスタッフの押す車椅子で現れた。濃紺のガウンの上に黒いダウン、オレンジのマフラーを幾重にも巻き、褐色のブランケットを膝に置いている。その姿は、学生時代に何度と行った苫小牧の山荘に棲みついていたヤマガラという鳥のようだった。

 ヤマガラは羽根を痛めて飛べなくなっていた。山荘の主人はこう言った。

「鳥は飛ぶのを諦めたときに死ぬんだよ。」

 彼は来る日も来る日も、ヤマガラの身体を撫で続けた。

「手を当てるから、“手当て”というのさ。」

 そう言って、長い冬の間中、撫で続けた。僕も時間があるときは、ヤマガラを撫でて過ごした。

 翌年の春、ヤマガラは空へ舞い上がった。山荘の周囲を何度も何度も周回した後、南へ向かって飛んで行った。

 彼は、車椅子から立ち上がり、軽く屈伸をした後、夜空を見上げて背伸びをした。

「星屑って、なぜ“屑”なんでしょうね。こんなにきれいなのに。」

 明日から、仕上げに入れそうだ。