わたしたちは、10年前まで通っていた高校に向かうなだらかな坂道を歩いている。胸の鼓動は、10年前のあの日と同じく痛いくらい鳴っている。

はじめて彼と手をつないだあの夜と同じように。

「結婚してるのか?」

「してないよ。」

「付き合っている人は?」

「いないよ。」

「なぜ?」

「こんな田舎にいい人いないもん。」

「そっか。じゃあ、失礼します。」

そう言うと彼は、わたしの左手を握った。身体中のすべての器官が彼の右手に覆われたような心地よさ・・・あのひんやりと柔らかな手は、10年前といっしょだった。頬を流れる夜風に乗って、このまま溶けてしまいそう。

わたしたちは、終始無言で歩き続けた。

予想どおり、校門は閉ざされていた。それを見た彼は、手をつないだまま、進行方向を右に変えた。そのままフェンスづたいに歩く。フェンスは張り替えられたばかりなのだろう。錆びた枠の中に、真新しい緑色の格子が闇夜の中にどこまでも続いている。それはまるで、夜の海に光る珊瑚のようだった。

「ぜったいあると思うんだよなぁ。」

フェンスひとつひとつを確認していく彼はうれしそうだ。

「やっぱりあった、これだ。」

小さな赤いリボンが結ばれてあるフェンスを指差して言った。そのまま腰をかがめ、リボンの真下にあるこぶし大の石をはぐると、小さなプラスティック製の印鑑ケースがあった。彼は、その中に入っている鍵を取り出した。

「よしよし。我ら野球部の伝統は、いまだに守られているようだ。」

「なんかうれしいね。この色あせた赤いリボンも鍵が入っているケースも同じ。」

わたしたちはどちらからともなく、グラウンド脇にある通用門に向かって走りだした。というか、手はつないだままだったから、一人が走ればもう一人も走らざるをえない。手を繋いで走るなんて、高校を卒業して以来だ。

正門の真裏に位置する通用門に到着した。しかし、当たり前のように通用門は閉まっている。だけど、わたしたちには鍵がある。学校に内緒でコピーした野球部伝統の合鍵。それを使って落書きだらけの南京錠を開け、通用門をぐるぐるに巻いている鎖を解き放った。鎖は軽快な音ともに地面になだれ落ちる。落ちた鎖を脇の草むらに寄せ、鉄製の重い門をスライドさせる。岩をくだくような音とともに通用門を二人で移動させた。ガラガラガラ。わたしたちは、校内に足を踏み入れた。そこは、10年ぶりのグラウンドだ。

走ってきた道からたった一歩だけ足を踏み入れた世界は、おそろしく静かだった。しんと静まり返った土の呼吸さえ聴こえてくるようだ。森の中を彷徨った後にたどり着いた広大な湖。何もないがゆえの美しさ。言葉を失い、わたしたちは、ただその光景を見つめ続けた。わたしは左手にちょっぴり力を込めた。

「スター選手がやる引退試合をやってみたいんだ。球団を辞めたのは自分からだけど、どうもまだ終わってないような気がするから。」

「いいんじゃない。同級生たちなんか集めてやろうよ。同窓会絡めて試合やろうよ。わたし協力するよ。何人か連絡つくし。」

「いやそうじゃなくて。今からここでやりたい。」

「今?ここ?どうやって?わたしと?」

「そう。今からここで君と。」

いまいち彼の言っていることが分からなかった。いや、さっぱり分からなかった。でも、なんでもいい。彼と一緒にいられるなら、なんでもいい。

「・・・いいよ。で、わたしはどうしたらいいの?」

「まずは準備運動だね。筋肉への急激な負担の付加は故障の元凶だからね。まあ、肘を壊したピッチャーが言うなという話だけど。」

冗談めかして言った彼は、わたしから手を離しゆっくりとグラウンドの外周を走り始めた。わたしはグラウンドの端っこに立って彼の姿を目で追う。悠然と走るその姿に、実は何も変わってないんじゃないかと思ってしまう自分がいた。彼もわたしも、わたしと彼も。わたしの左手には、彼の感触がまだ残っている。彼は時折スピードを速めたり、ジグザクに足を交差させて走っている。澄みきった空気は、彼の吐く息さえ見せてくれた。

「マネージャーさーん。ラスト1周でーす。」

彼の声が聞こえた。我が野球部の伝統を思い出す。ラスト1周は、マネージャーも一緒に走る。わたしはサンダルを脱ぎ、裸足になってから、23度屈伸をした。彼が近づいてくる。柔和な表情は、わたしの緊張をゆるやかにほぐしてくれた。

わたしと彼は並んで走った。

「なんか懐かしいね。」

「だね。」

足の裏から伝わるグラウンドの湿めやかなぬくもりが10年前の病院で持ちえなかった勇気を与えてくれた。

「あのときは、こうやってずっと走っていられると思ってたんだよな、誰もがみんな。」

「なんであんなに毎日が楽しかったのかしら。」

「毎日毎日、新しい毎日・・・新しい日常だったからじゃないかな。」

彼らしい言い回しだ。非日常じゃなくて、新しい日常。

「10年間おつかれれさまでした。」

「ははは。まあ、ぱっとしない10年間だったけどね。」

「ごめんなさい。」

「また、あやっまてる。あやまることなんかしてないだろ。個人的には結構楽しかったんだよ、この10年。たくさんのプロ野球選手を間近で見られたしね。これ、職業的特権。勝ち負け関係なく、毎日、野球出来たのも僕向きだった。勝てば天国、負ければ地獄といったプロの世界はどうも向いてなかったみたい。リハビリ期間中も、リハビリが終わっても1軍のマウンドに立ちたいという気持ちが湧いてこなかった。いや、むしろ拒絶していたくらい。ただ、もくもくとボールを投げていたい、それだけを望んだ。そしてその通りに出来た。バッティング・ピッチャーは楽しかったよ。バッターを討ち取るために投げるのでなく、調子を上げてもらうために投げるんだ。お医者さんのようなもの。向いていると思わない?」

「思う。思うけど、やっぱり・・・ごめんなさい。一番、大事なときにわたしのバカっぷりにつき合ったばっかりに・・・。」

「だから、そんなんじゃないんだって。まあ、いいや。じゃあというのも変だけど、引退試合に付き合ってくれるよね。」

「うん。なにをしたらいいの?」

おもむろに彼は走るのを止め、立ち止まった。息を整え、進行方向を変え、歩き始めた。グラウンドの中のこんもり盛り上がっている場所・・・マウンドに向かう。一瞬取り残されそうになったけど、わたしも彼の後を追った。

マウンドの頂点で彼は立ち止まり、わたしを見据える。わたしは、ちょうどホームベースのあたりで立ち止まった。

「やっぱり、ここはいいね。今日もいい風が吹いている。」

いったい、この人は何を始めようとしているのだろう。

「じゃあ、今から引退試合を始めるね。たった一球だけだ。僕はここから投げる。そして、君はそこで打つ。」

「ボールもバットもないよ。」

「あるよ。ほら。」

右手を差し出した。あのときと同じだ。彼が右腕をやってしまったあの試合のときと同じ。柔らかく微笑み、わたしに向けた右腕の先にはしっかりと白球が握られていた…ように感じた。

「わたしのバットは?」

彼はその差し出した手の人差し指だけをピンと伸ばし、わたしを指差した。なるほど、わたしも持ってたんだ。

「ごめん、ごめん。」

わたしは左バッターボックスに足を踏み入れる。そして、イチローばりに右手に持ったバットを彼に突き出し、左手でシャツの腕をつまんだ。彼ははじめてマウンドに上がった子供のようににっこりと微笑み、センター方向…つまりわたしに背を向け、大きく伸びをして言った。

「ありがとう。もうひとついいかな。」

「いいよ。なんでもござれ。」

バットを持った右手を差し出したまま答えた。彼の声は、校舎に跳ね返ってわたしに届く。

「ど真ん中に投げ込むから、フルスウィングして欲しい。絶対にど真ん中に投げるから。」

「ぶつけないでよ。」

「大丈夫、セイケのお墨付きピッチャーだから。」

「・・・はい。」

「じゃあ、いくよ。」

「ちょっと待って!」

ぴくりと止まる。

「何?」

「・・・なんか、わたしも引退したくなっちゃった。」

「何から?」

「色々・・・この10年間の色々。」

「じゃあ、ちゃんと打てよ。」

「ちゃんと投げてよ。“ど・ま・ん・な・か”に。プロ野球選手なんだから。」

「“元”だけどね。」

そう言うと、彼はゆっくりわたしに対峙した。マウンド上にいる彼は、10年ぶりに見ても何ひとつ変わっていない。

彼が振りかぶった。わたしは、バットを自分のほうに引き寄せる。そして、わたしは目を閉じた。マウンドから吹く風が彼の投球フォームを運んでくれる。

上半身をひねった彼の背中に描かれた背番号『14』・・・18メートルあまり先の彼の背中でぴんと張り詰める。しなやかな右腕の動きは、完璧だ。折れそうなくらいしなった釣竿のような右腕が、夜の空間を真っ二つに斬る。

ビュン

右腕からボールが放たれる。地面に向かって投げ下ろされたボールは、途中で意思を持ったようにその頭をもたげ、最高のポイントで風を掴んだ帆船のごとく、ぐんとスピードをあげる。

わたしは閉じていた目を開いた。

まっすぐまっすぐ・・・そう、ど真ん中のストレート。

夢中でバットを振りぬいた。渾身のフルスウィング。

キーン

真芯で捉えたボールはまっすぐ彼の頭上を走り抜ける。彼もわたしもそのボールの軌道を追う。

わたしたちの視線の先には、満月前夜の月が大きく大きく輝いている。ほんの少しの欠けは、今のわたしたちにちょうどいい。

白球は、その欠けを補完するかのようにどこまでもどこまでも伸びていく。

わたしはバットを放り投げ、ボールを追うように駆け出す。

満月前夜の月の麓には彼がいる。長い長いサイレンが鳴り響いた。わたしは、10年間分の想いを込めて、彼に飛び込んだ。マウンド上のふたりのシルエットが重なる。

さあ、新しいシーズンのはじまりだ。

プレイボール