市街地を戦車が列をなして整然と進んで行く。舗装された道路には、幾筋ものキャタピラの跡が走り、それはまるで頬を伝う涙のようだ。初秋を彩るはずの色彩などどこにも見えず、窓の外の光景は、古いモノクロ映画のようにノイズ混じりで暗いトーンに沈んでいる。

ここはどこだろう。石造りの古ビルの3階・・・窓際に立ち、カーテンの隙間から道行く戦車を眺めている。

ひときわ大きな戦車がビルの正面で止まった。音というより振動に近い微弱な低音とともに砲台が動きだした。身を隠しているこの部屋で、砲口の先が静止した。戦車砲の先で何かが動く。

動いているのは、ポニーテールに髪を結わえた少女だった。右手だけを前方に突き出した少女時代のわたしだった。彼女は無邪気に微笑み、何かを叫んだ。戦車砲に何かが装填される。ガチャ・・・その音は、この部屋を破壊する意思となって、わたしに届いた。

「わたしは味方よ!!!」

カーテンを引き裂き、窓を開けた。

 少女はゆっくりと右手を頭上に掲げ、勢いよく振り下ろした。轟音とともに、真っ白い光の膜がすべての視界を奪った。

 僕とマイは、3年前、深夜の路上で出会った。コンビニで数日分の朝食用にと缶コーヒーとヨーグルトを購入しての帰り道、電柱の脇で呆然と立ち尽くすマイに出会った。日ごろの僕は、見知らぬ女性に声をかけるようなタイプではない。そんな勇気はない。知り合いの女性であっても、確固たる用事がなければ、話しかけることもほとんどない。一人でいることが好きなこともあるが、異性との接し方というのが、どうも分からない。しかし、彼女をそのまま放って帰るには、少しばかり躊躇われる様相を彼女はしていた。僕を見た彼女は、シクシク泣き始めたのだ。帰るべき家を失った少女のようだった。どうしたものかと僕は、彼女の手前3メートルの場所で立ち止まった。やがて、しゃくりあげるように泣きだし、街灯に照らされたアスファルトに落ちた涙がはっきり分かるくらい泣き続けた。

「あの・・・夜も遅いので、そろそろ帰った方がいいと思うのですが・・・。」

なにはともあれ、間違いなく正しいことを言ってみようと、そう言ってみた。ここで泣き続けるよりも家で泣いたほうが、安全なはず。僕の言ったことは、間違っていないはずだ。

しかし、彼女は一向に泣きやむ気配さえ見せない。こんな時、僕は、このまま帰った方がよかったりするのだろうか?それが、そっとしてやるということなのだろうか?いや、田舎町と言えども、深夜は物騒なことも多い昨今、それは良くないと思う。参ったな・・・なんとか打開策はないものか・・・帰ろうに帰れない。僕は、出したことのないタイプの勇気を出すことにした。

「あのですね、ここいらも夜は危ないと思うのです。僕は、これから公園に行って、缶コーヒーを飲もうと思っているのですが、よければ一緒に行きませんか?あくまで、よければですけど。缶コーヒーもブラックから微糖タイプ、カフェオレなんか色々買ってあるので・・・よければですけど、一緒に缶コーヒーを飲んだりしませんか?」

ぴたりと彼女は泣きやんだ。缶コーヒーに反応したのかどうか分からないけど、結果的に泣きやんだということに僕は、ほっとした。

「一緒に行ってもいいのですか?」

はじめて聞く彼女の声だった。小指の先で触るだけで折れてしまいそうなか細い声。

「あ、あ、は、はい。あくまで、よければですけど。」

そろりそろりと彼女の左手が差し出された。ん?挨拶の握手にしては、反対の手だぞ。あ、もしかて手を繋ぐということか?彼女が左手ということは、僕は右手か・・・なんか、汗かいてきた。でも、ま、まあ、そういうことなのかも。そういう状況に慣れてない・・・というか、こういうことが日常的にあるのも変だけど・・・近くで怖いお兄さんがスタンバイしていることなんかないよな・・・。僕は顔を動かさず、眼球の動く範囲だけを素早く見渡し、周囲に誰もいないことを確認しつつズボンの脇で汗ばんだ手を拭いてから、彼女の左手を受け取り、公園に向かった。冷え切った彼女の手は、僕の手の中で小刻みに震え続けていて、彼女の心が普通じゃない場所にいることは容易に想像出来た。

 僕らは5分ほど歩いた場所にあるジャングルジムだけが設置されている小さな公園のベンチに並んで座った。

そこで何を話したか、よく覚えていない。とりとめのない話・・・お互いに好きなもの、それは本だったり音楽だったり、色だったり匂いだったり、季節だったり景色だったり。話す方も聞く方も不快な気分にならないことについて話し、聞き続けた。ただ、彼女の話し方は少々歪んでいた。延々と話し続けたかと思うと唐突に終わり、終わることを恐れているかのように無理して次の好きなものについて話し始める。そして、引きちぎるように終わり、また話し始める。時間の流れが止まることに激しく抵抗するかのように、沈黙を言葉で埋め続けた。

 夜が明けた。何かを達成したわけでない徹夜明けの朝は、いつも決まって曇り空だ。

「あの・・・申し訳ないんだけど、これからバイトに行かなくてはいけないんで・・・。」

「え?あ・・・はい。すみませんでした。そうですよね、今日はたしか・・・木曜日でしたよね。お仕事ですよね・・・そうですよね・・・すみませんでした。」

「いや、まあ大した仕事じゃないんで、僕がいなくても問題なしなんだけどね。でも、こう・・・なんとなく、一応ね・・・石鹸をつくる会社で梱包作業をやってるんだ。不思議だよね、僕が今日のバイトを休んでも、お風呂に入って身体を洗う石鹸がなくて困る人なんてどこにもいないだろうにね。それどころか、使われずに押し入れなんかの中に入れっぱなしになったまま忘れられている石鹸だらけだと思う、この世の中は。これ以上、しばらくは作る必要のないものを作り続けるための仕事の意味って何だろうと時々考えてしまうんだ。世の中の歯車にさえなれない僕の役割って何だろうとね。君にも僕にも、きっと何かの役割があって生まれてきたんだと信じたいよね。だからかな?休むわけにはいかないと思ってしまうなんて・・・まるで、飼いならされたシモベだね。ところで、君は、今日休みなの?」

「わたしは仕事をしていないんです、今。一緒に暮らしている妹にお世話になっています。夜勤ばかりの仕事だから身体が心配です。わたしがもう少ししっかりしなきゃいけないんですけど・・・だらしない姉なんです。」

「聞いていいのかどうか分からないけど、どこか悪いの?」

「・・・どこが悪いというわけじゃないみたいです。病院に何度か行ってみたんですけど、どこの先生も頭をひねるばかりで。ただ、一日の大半を眠って過ごさないと身体がもたないんです。すぐに疲れてしまうんです。」

「そうなんだね。じゃあ、もう休んだほうがいいよ。自宅に帰って眠らないとね。」

「はい・・・・・・。」

「それじゃ・・・・・・。」

僕はベンチから立ち上がり、彼女にヨーグルトの入ったコンビニ袋を差し出した。

「疲労の回復に効果あるみたいだから、きらいじゃなかったらどうぞ。」

彼女は、コンビニ袋に手を伸ばし・・・ヨーグルトではなく僕の右手を握った。その手は、公園に向かったときのように小刻みに震えていた。

「あの・・・アルバイトっていつ終わるんですか?」

「・・・3時くらいには終わると思うけど。」

彼女は何かを考え込んでいるようだった。そして、うな垂れるように下を向いたまま言った。

「あの・・・ここで待っていたら、また来てくれますか?」

 今度は僕が考え込む番だった。深夜の不思議な出会いから彼女と話した数時間は決して苦痛なものではなかった。いや、むしろ久々にきちんと自分以外の人、それも異性と話せた時間だったような気がする。僕自身、また会えるといいなと、さっきから思っていたりもした。でも、いざ、そうなりそうになると、むむむとなってしまう。それに、ここで待つといっても、季節は8月。今年の夏は、記録的な猛暑だ、なんだと連日、テレビで連呼しているくらい暴力的な暑さが続いている。そう言えば、一日の大半を眠って過ごすと言ってなかったっけ?ここで寝たりすると、間違いなく倒れる。ヘビー級の格闘家でも倒れるだろう。

「答えはYESだよ。ここに来るのは約束する。でも、ここで待っているというのはどうかな?暑いよ、多分というか絶対。必ず来るから、一度自宅に帰ったほうがいいと思うんだけど。部屋で少し寝たほうがいいよ。」

 彼女はゆっくりといやいやをした。

「今日はまだ帰れないんです。多分、妹のお友達だと思うんですけど、怪我をした知らない男の人が部屋で倒れているんです。昨日の夜に目が覚めたら、部屋の中に血だらけの男の人が倒れていたんです。それで、テーブルの上に置き手紙あって・・・妹からの手紙だったんですけど、わたしに危害を加えることはないから気にするなっていう内容だったんですけど、気にしますよね。怖くて怖くて、身体が震えてきて・・・怖くて怖くて・・・それで部屋を出たんです。部屋を出たのはいいけど、どこに行っていいか分からなくて、せめて明るいところにいようと思って、あの電灯の下にいたんです。多分、まだ、あの男の人が部屋にいると思います。だから・・・だから、ここで待ちます。待つのは平気ですから。夕方までだったら、あっという間です。」

 僕がバイトを終えて、ここに来ることが出来るのは、10時間後だ。10時間もこの炎天下にいるなんて無理に決まっている。バイトの時間も迫っている。どうしたもんか。

「じゃあ、こうしませんか?君は、これから汚い僕の部屋に来て、ヨーグルトを食べながら待つというのはどうですか?」

彼女の顔がこちらを向く。

「え?でも、そんな・・・いいんですか?」

「君さえよければ、僕は構いません。男の一人暮らしなんで、時間つぶしが出来るようなものは何もないですけど。ただ、ベッドはあるので、眠ることくらいは出来るよ。」

彼女は、僕の手を握ったまま立ち上がり、頭を下げた。

「すみません・・・おじゃまさせていただきます。」

 僕たちは手を繋いだままアパートに到着した。そして、部屋にあるものは何でも使っていいし、冷蔵庫の中にあるものは何でも食べていいことを伝えて、僕は、バイトに向かった。