奇妙な夜の感触を残したまま、石鹸の梱包作業をいつも通りこなした。この日のアルバイトは、いつにも増していつも通りに進み、終わった。僕が中心の世界で何が起ころうとも、僕が中心でない世界には何も影響を及ぼさない。まあ、そんなもんだ。世の中にとって、僕の役割とは何なんだろう?うとうとと帰りのバスの中で考えてみたけど、1ミリも答えに近づくこともないまま、いつも通り、きっかり15分で自宅近くのバス停に到着した。

 バス停の目の前が僕の住むアパートだ。異性が待つ自分の部屋に帰るのは、はじめての経験で、少しばかり浮かれた気分でドアを開けた。

 しかし、世の中はそんなに甘くない。部屋の中では、僕が中学生のときに買ったジミー・ヘンドリックスのアルバムが、耳を劈くばかりの爆音でかかっていた。昨晩に聞いた話では、彼女の好きな音楽はボサノバなどのナチュラルテイストのものがメインで、こういった攻撃的な音楽は嫌いというより苦手だと言っていたような気がするが・・・。あまりの轟音にドアごと吹っ飛ばされそうになった。

 冬の深い夕闇を迎えている時間帯、カーテンを締め切った北向きの部屋は真っ暗だった。両手で耳を塞ぎ、何故か腰を屈めた姿勢で部屋に入った。

「ただいま!電気点けるよ!」

ジミヘンがかき鳴らすギターに負けないような大声で言ってから、スイッチを押した。ソファーに立て膝ついて座る彼女がいた。射抜くように僕を見据えている。

「お前は誰だ?」

今朝までの彼女とは明らかに目つきの違う彼女が言った。僕は誰だ?誰なんだ?というより、彼女は誰だ?誰なんだ?

 何が何だか分からないまま、僕は彼女のことを観察してみた。少なくとも、彼女は僕のことを歓迎していないようだ。不法侵入者を見るような目で僕を見ている。でも、ここは僕の部屋で、どちらかというと僕は敵意と受けるより感謝されるべき存在だと思う。僕が石鹸の梱包をしている間にこの部屋で何かあったのだろうか。何はともあれ、彼女の態度は、誤解からくるものだと思う。その誤解を解かなければ、どうも具合が悪い。居心地が悪い。こういうときは、なるべく相手を刺激しない態度・・・あくまで、普通の会話らしく何気ない流れを心がけるべきだ。僕は、彼女とキッチンに立って食事を一緒に作っている光景を頭に思い浮かべた。玉子焼きは、砂糖入りが好きかどうか聞くようにこう尋ねてみた。

「なんだか、今朝までと様子が違うけど、どうかしたの?」

と言い終わってなかったと思う。目の前が一瞬光った。光は僕の耳元をかすめ、鋭縁な音が走り抜けた。振り返ると、壁にナイフが刺さっていた。僕がいつも使っている果物ナイフ。僕は条件反射のように両手をあげた。情けないけど、無意識にそうしていた。戦意喪失の合図だ。というよりも、戦意なんてはじめからない。どちらかと言えば、好意しかなかった。彼女の待つ僕の部屋に一刻も早く戻りたく、小走りに近い早歩きで帰ってきたくらいだ。ただ、こういった状況には当たり前だけど慣れていない。戦う術も知らない。というわけで、僕の取りうる最大限の防御反応して、本能が瞬時に選んだのが、ホールドアップだったようだ。かっこ良くはないけど、悪くない選択だったと思う。

「お前は誰だ?」

彼女は、同じ質問をした。なぜ、今朝あったことを他人事のように聞くのだろう?

「公園で・・・缶コーヒーを一緒に飲んだのを覚えてない・・・かな。」

僕は、玉子焼きには砂糖を入れるほうが好きなんだよと言うように、両腕を上げたままの姿勢で答えた。幾分、声が震えていた。

「もう1度聞く。オ・マ・エ・ハ・ダ・レ・ダ?」

どうやら、彼女の記憶から僕という存在、そして多分、昨晩から今朝にかけての出来事が消えているらしい。らしいけど、そんなことってあるのだろうか?寝起きで寝ぼけているのだろうか。だったら、早く目を覚まして欲しい。

「・・・僕の名前は、シンヤ・・・電柱の前で気を失ったように立っていた君のことが心配で声をかけて、その後、公園で缶コーヒーを一緒に朝まで飲んで、君が妹と一緒に住んでいるアパートには帰れない・・・なんか、怪我をした異性がいるとかどうとかで・・・それで、こんな厚い中、その公園でずっと過ごすというから、それは過酷だなぁと思って、それじゃあ、僕の部屋で休んでいてもいいよと提案したら、じゃあ、そうしますということで・・・それで、多分、今、こういう状況になっているというか・・・あ、でも、僕の記憶違いだったらごめん。」

「なんで、お前は初対面の女を部屋に連れ込んだりしたんだ?」

「連れ込む・・・連れ込んだつもりはないよ。君が自分の部屋に帰れない上にその公園で日中過ごすというから、こんな炎天下に。身体もあまり強くないというし、僕は気ままな一人暮らしだし・・・だったら、適当に僕の部屋を使えばいいと提案したら、君は喜んで同意してくれた・・・たしか、そんな流れなんだけど・・・記憶違いだったら、ごめん。本当にごめん。」

我ながら情けない姿だったと思う。両手は天井に届かんばかりに真っ直ぐ伸ばされ、幾分、支離滅裂になりながら、声は時折、裏返り、必死にこの状況から逃れようと言葉を選んで、彼女を刺激しないような言葉を選んで彼女に説明した。でも、よくよく考えてみれば、ここは僕の部屋なのだ。スポーツでいうところでのホームだ。これじゃ、まるでアウェイだよ。

「微塵でも嘘をついたら、お前は死ぬよ。壁に突き刺さっているナイフとは別に、もう一本あるからね。さっき、顔をすり抜けたのは偶然じゃないよ。狙ったんだからね。この距離だったら、お前の着ているシャツについている左胸ポケットの真ん中を百発百中させる自信があるからね。だから、嘘をつくんじゃないよ。」

彼女は左手に隠し持っていた包丁を右手に持ち替えた。

「嘘はついてないよ。神様にでも何でも誓っていい。君の名前だって知っている。」

彼女は顔がピクリと動いた。

「言ってみな。」

「マイさんだろ。」

「・・・ヤッたのか?」

彼女は何を言っているのだろう。したのかしてないのかは、自分が一番知っているはずだ。今朝、僕がこの部屋に5分間もいなかったと思う。着替えて、顔を洗っただけだ。寝起きで寝ぼけているんだったら、そろそろ正気に戻ってほしい。

「してないよ。誓ってしてない。言っておくけど、証明なんて出来ないよ。昨日の夜から朝にかけて、僕は君と公園にいただけで他の誰とも会ってないし、朝になって部屋に帰ってからは、僕は着替えただけで、君はその間、キッチンで待ってた。つまり、君と会って以来、第三者は誰も存在してないんだ。だから証明できない。証明できないけど、嘘はついていない。誓って嘘はついていない。」

 目の前が光った。果物ナイフに比べて大きい分だけ、その音は耳元でいくらか太く唸った。死ぬときなんてあっけないもんだ。とっさに身を守ろうとした僕の本能は、顔の前で腕をクロスさせた。そこじゃい!守るのところは、胸だ。左胸だ。心臓だ。心の臓だ!

 ドスッと音を立てて、包丁は僕を中心に果物ナイフとは、反対側・・・左側の壁に突き刺さった。僕は、両手をクロスさせたまま腰から落ちた。どうやら、まだ生きているようだ。勘弁して欲しい。

「だろうな。あいつが、ヤれるわけないからな。」

 外は、夏が終わることに精一杯、抵抗をするかのように蝉が鳴いている。雨が降っているのだろうか。遠くで雷が鳴る音がする。彼女はなにやら考え事をしている。胡坐を組んだ膝に両肘を乗せて、目だけ僕の方に向けて頭を抱えた。