夜食用のサンドウィッチと缶コーヒーを近所のコンビニで購入した後、僕は家族が眠る自宅に歩いて向かっている。なだらかな坂に映る僕の長い影は、道路の凹凸に合わせて時々歪む。平均年齢60歳をはるかに超えている我が町内の深夜4時過ぎは、これから来る朝を待つのでなく、そのまま世の中の終わりに向かっているような深遠な静けさに満ちている。

24時間営業のコンビニがいくら増えようとも、今も昔も変わらず、間違いなく夜は来る。毎晩訪れる夜であるが、金曜日の夜だけは、他と違った意味を持っている。夜明け前、二つの世界に切り離されるのだ。便宜的に、あちら側の世界とこちら側の世界と呼んで僕らは分けている。こちら側の世界にとどまるのは、世界中に60人程度いるらしい。僕の家族を例にとると・・・妻と二人の子供たちはあちら側の世界の住人となり、僕だけがこちらの世界に残る。この時間、あちら側にいる人々と、僕らこちら側にいる人々は交信することは出来ない。携帯電話を没収された恋人のようなものだ。叫んでも叫んでも、すとんと声は吸い込まれてしまう。何故そうなるのかは分からない。分からないけど、そうなるのだ。脈々と受け継がれてきた金曜日の夜の仕組みは、曲げようがない。
 静かに鍵を回し、ドアをあける。深夜4時の我が家は、この時間、あちら側の世界に属している。あちら側の世界で、こちら側の世界の住人が呼吸をすることは禁じられている。両者が交じり合うと、果てしないメルトダウンが始まるそうだ。それは、世界の終わりに繋がっているらしい。息を止めたまま、妻と2人の小さな子供たちが目を覚まさないように静かにゆっくり階段を上がる。2階の廊下を突きあたりが僕の部屋だ。モンゴルの岩塩とペルーの赤土を混ぜたもので結界を張ったその部屋は、この時間のこの家の中で唯一こちら側の世界に属している。部屋に入り、一気に息を吐き、そして吸った。今夜も無事に帰還出来たことに小さくガッツポーズをする。
 窓際に椅子を寄せ、サンドウィッチ、缶コーヒー、携帯電話を5センチ幅ほどの窓枠スペースに置く。
 昼間の空と同様、夜空にも色々な表情がある。こちら側の世界の住人になって、夜空について詳しくなった。今夜は、タイプPⅢと呼ばれる南半球の洋上でよく観測されるタイプのものだ。北半球のちょうど真ん中あたりに位置するこの窓からは、年に2,3度程度のみしか見ることの出来ない珍しいタイプのものだ。なんとなく得をしたような気分がして、僕はククット下を向いて笑った。
 5時39分・・・今日の日の出時間まで、あと2分だ。うっすらと空は地球色を帯びてきている。
 大勢のカラスたちが、寝床にしている下水管から次々と現れ、空を周回し始めた。

 【シュシュッ】

 5時41分。FM音源を使って自作したメールの着信音が短く鳴った。時を同じくして、あちら側の世界とこちら側の世界を分けていた境界線が瞬時に落ちる。ふたつの世界は、ほんの少しだけ躊躇った後、カフェオレボールに注がれるミルクとコーヒーのように柔らかく交じり合い、溶けていく。僕は、携帯電話を手に取り、届いたメッセージを開いた。

『おはようございます。点検・保守の完了をお知らせします。今週の陥落地区はゼロです。ご協力ありがとうございました。来週もよろしくお願いいたします。(二夜公団統括)』

 6年前に受け取ったこちら側の世界への招待メールをきっかけに、毎週金曜日の早朝は窓際で空を眺めながら迎えるようになった。あちら側とこちら側の世界の違いなんて何一つ分からないし、僕のやっていることが、どう役に立っているのかも知らない。それを上手く混ぜ合わせることに失敗する・・・つまり、陥落すると起こるらしいメルトダウンとは何なのかも不明だ。なんでも時計の針が刻んでいる横軸の時間でなく、縦軸の時間が暴走し飛び散ってしまうことらしいが、それが実際どういうことなのか皆目見当つかない。ただ、世の中というか世界中に難解な出来事が増えているのは、どうもこのふたつの世界が交じり合ってしまった地区が増えていることが原因らしい。
 まあ、僕には分からないことだらけだけど、なんとなく世の中に役立っているのかもという予感と期待だけで、6年間続けてきた。ただ、窓の外をじっと見上げるだけでいいのだから、不器用な僕でも何とかなると思ったし、実際、何とかなっている。6年たった現在でも、この日を指折り数えて待っていたりする。
 金曜の朝から始まる新しい1週間が始まった。
 窓を開け、缶コーヒーのプルタブを引っ張り、朝の引き締まった空気と共に飲み込む。
 世界のみんな、おはようございます。