破れかけたマフラーが、後方に白煙を撒き散らすのがミラー越し
に見える。助手席側の足許に開いている穴から、断末魔の呻き声
のような騒音が、不快な排気ガスの匂いと共に容赦なく車内に入っ
てくる。それでも僕は、アクセルを目一杯に踏み込む。
 14歳まで過ごしたこの町に、僕は25年ぶりにやってきた。
 全てが変わってしまったようにも見えるし、何一つ変わってないよ
うなにも見える。ただ、25年という歳月のことを思うと、僕にとってこ
の町は、近くて遠い場所だったのだろう。
 
 僕は、響灘(ひびきなだ)と呼ばれる海をのぞむ町で生まれ育っ
た。ケミカル色のガスが排出される煙突が乱立し、ガリガリに痩せた
野良犬たちの群れが、カラスの大群と餌の奪い合う埋立地に作ら
れた小さな町。そこは、工場地帯を包囲するように建てられたすす
けた社宅や市営住宅に労働者とその家族たちが、ひしめき合うよう
に住んでいた。
潰れた工場の跡地で野球ばかりしていた当時の僕らは知るよし
もなかったけど、大人たちからすれば、決して好んで住むような地
区ではなかったらしい。
 こんなエピソードがある。
 僕らが毎日のように通っていた駄菓子屋があった。そこの店番は、
割烹着姿の意地悪ばあさんときれいなブルーのアイシャドーが印
象的なお姉ちゃんが交代でつとめていた。子供心に、お姉ちゃん
が店番をしていると嬉しかったものだ。
 その駄菓子屋の奥には、6畳の小上がりがあった。窓のない薄暗
いその部屋に入っちゃいけないと意地悪ばあさんから何度も何度
も言われた。それでも入ろうとすることを止めなかった僕らは、その
度にきつく叱られた。
 ケチなばあさんだ、早く死ねなどと、2日に1度は友達同士で話し
たものだ。そして、思春期の入り口に立った頃、その理由を知っ
た。
 そこは駄菓子屋の看板を掲げた売春宿だったのだ。ばあさんが
受付業務を担当し、お姉ちゃんが客と寝る。あの小上がりは、その
ためのスペースだったわけだ。ここの他にも、たこ焼き屋やゲーム
センターなんかで表営業している売春宿が、点在していた。それら
は、響灘を埋め立てた場所で働く工場労働者たちを相手にしてい
たものらしい。
 
 中学1年の夏休み、僕は、親によって進学塾に放り込まれた。父
親の知り合いが始めたばかりの塾で、親同士の付き合いに僕も付
き合わされたようなものだ。
「ねえ、終わったら家に遊びに来ない?」
 同じ夏期講習に通っていた同級生のルミが、声をかけてきた。彼
女は、学年一の優等生であり、僕ら悪ガキ連中イチオシのかわい
い女の子だった。もちろん、僕は即答でYESの返事をした。
 彼女の自宅は、僕らの住む町では数少ない一軒家だ。玄関を入
ってすぐのカビくさい応接間に通された。2DKのアパートに住んで
いた僕は、座り慣れていない革張りのソファーに座って、出された
麦茶を飲んだ。
「これ、どう思う?」
 ルミは、1枚のレコードをセットし、針を落とす。まとわりつくよ
うな声の外国人が歌うはじめて聴くタイプの音楽だった。1曲目が終
わったところで、僕のほうを振り向いた。
「どう?」
正直なところ、曲の良し悪しもルミが僕を呼んでまで聴かせた意
図も、さっぱり分からなかった。ただ、かっこ悪いところを見せるわ
けにはいかない。
「うん、かっこよか。外国っちゅう雰囲気をばりばり感じる」
「そう思う?よかったあ。これ、ローリング・ストーンズっちゅうイギリス
のグループなの。最先端の音楽よ。ロックン・ロールっちゅう音楽な
んよ。」
「なんか聞いたことある。ローリング・ストーンズのロックン・ロールっ
ちゅうのが流行っとるっち聞いたことある。」
 もちろん、口からでまかせだった。ロックン・ロールと言えば、 “横
浜銀蝿”というテレビの歌番組によく出ていた4人組がやっている
音楽のことで、学校のほうきをギターに見立てて、「ツッパリ ハイス
クール ロックン・ロール 登校編」や「お前サラサラサーファーガー
ル おいらテカテカロックンローラー」を歌うぐらいの知識しかなかっ
た。
「宮田くんなら分かってくれるっち思ったんよ。持って帰って聴いて
もいいよ。」
 ルミは頬を上気させて、ローリング・ストーンズの素晴らしさをひと
しきり喋り続けて、そう言った。
「いや、弟がレコードを傷つけたらいかんけ、持って帰れん」
 嘘だった。我が家は、小さなラジカセ止まりでレコード・プレイヤ
ーがなかったのだ。
「じゃあ、好きなときに聴きに来て。ローリング・ストーンズが好きそう
な人、連れてきてもいいよ。」
「うん、そうする。」
 ローリング・ストーンズなんて、どうでもよかった。ただ、もしかした
ら、ローリング・ストーンズのことを好きになれば、ルミと付き合える
かもしれないという中学生くらいの男にありがちな短絡的な期待に
胸が高鳴った。
 帰宅してすぐにレコード・プレイヤーを買ってくれと母親にせがん
だ。
「2学期の中間試験でクラス5番以内に入ったらね。」
 母親は、当時の僕にとって無理難題に近い交換条件を提示して
きた。僕は、それを了解した。
この時期の男は、不純な動機であればあるほど、驚くべき集中
力を発揮させる。
 僕は5番ジャストの順位を手中にし、ポータブルのレコード・プレ
イヤーとルミの家で聴いたローリング・ストーンズのレコード“刺青の
男”を手に入れた。
 また、その頃、ルミの家には、僕のほかに、サッカーの上手い矢
部という男と、ルミの親友だったヨシコの4人が集まるようになって
いた。『ロックン・ロール会』と名づけられたその集まりで、僕らは、
毎週末、少ないレコードとエアチェックしたカセットテープを持ち寄
っては、ロックン・ロールを聴き続けた。

 ポンコツ車は、相変わらず白煙と騒音を撒き散らしながら、目的
地へ向かってくれている。あと、5分くらいで到着する。少々、話を
急ごう。

 『ロックン・ロール会』は、それぞれが別の高校に進学しても、しば
らく続いた……いや、しばらくして終わった。狭い水槽を回遊する
ような生活をしている10代の僕らにとって、違う高校に通うというこ
とは、別々の国に住むようなものだったからだ。
 また、いつからか矢部とヨシコが付き合い始め、『ロックン・ロール
会』よりもデートを優先するようになった。自然と、僕とルミの二人き
りの『ロックン・ロール会』となった。


 忘れもしない、高校1年の夏休み……ルミが前年に購入したロー
リング・ストーンズの“アンダーカバー”のレコードを二人きりで聴い
ていた。
「最近、メンバーの仲が悪いらしいよ」
「うん、そうらしいね。でも、アルバムはかっこいいよな」
「そうね。だから、心配ないと思うんだけど。バラバラになっちゃ嫌
だな。せっかく、ミックやキースたちが出会って作り出したバンドな
んだから、仲良く仲間としてやり続けて欲しいの」
「どうなんだろうな。ロックン・ロールのミュージシャンって、我慢が足
りんそうやけん、バラバラになってしまいそうな気がせん?」
「だから、心配なのよ。私たちが仲良くなったのも、ロックン・ロール
のおかげでしょ?心配なの……ローリング・ストーンズも私たちも。
バラバラはいやなの」
 ちょうど、A面が終わり、居心地の悪い沈黙が降りてきた。青臭い
話には付き合ってられないとばかりに、最新機種のプレイヤーは、
自動でレコードをB面へひっくり返す。プツプツとその沈黙を突付
くようなレコード・ノイズの後、軽快なディスコ・ラインをベースが奏で
始めた。
 トゥー・マッチ・ブラッド!このアルバム中で、僕が最も好きな曲だ。
僕の気分は、ぐんぐんと高揚していく。ここは、男として決めんとい
かん。トゥー・マッチ・ブラッドな感じで、決めんといかん。
「大丈夫ぜ。そんなことになったりせん。もし、そうなっても、ロック
ン・ロールを捨てんかったら、大丈夫。別れっぱなしにはならん。遠
く離れても、ロックン・ロールで繋がり続けるのが、ロックン・ロール
やけん」
 ルミは、しくしく泣き始めた。「俺の言葉に感動している」と思い、
横に座っていたルミの肩を抱いた。そうされたルミは、僕のTシャツ
の袖を握り締めて、泣きじゃくった。
 トゥー・マッチ・ブラッドな感じに間違いない……そう確信した。
 曲は佳境に入り、ミックがシャウトを続ける。僕は、意を決して、ル
ミの両肩を掴み、顔を近づる。決死のファースト・キス。
火花が錯乱した。
ルミの握った拳で、鼻の付け根を打ち砕かれた。
両方の鼻の穴から、血が流れ出てきた。
 まさしく、トゥー・マッチ・ブラッドだった。
「ごめん、宮田くん……本当にごめんなさい。わたし、結婚するまで
は、そういうのダメだって決めてるの……わぁ、すごい血……どうし
よう。ごめんなさい。ティッシュ使って、いっぱい使って!」
 じんじんと痛む鼻の奥に照れくさい罪悪感を隠して、僕は台所で
夕食の準備をしていたルミの母親に挨拶をしてから帰宅した。
携帯電話もメールもない時代の話だ。ごめんの一言が言いづら
く、どうしたもんかと考え続けたけど、名案、妙案浮かぶことなく2週
間が過ぎた。
ルミから電話があった。
「元気?」
「ああ、元気だよ……」
「まだ痛い?」
「あ……いや、もう痛くない」
「ごめんね」
「いや、こっちこそごめん。変なことしてごめん」
「変なこと……じゃないんだろうけど、わたし、そういうのまだダメな
の。ごめんね。宮田くんのこと嫌いとかじゃなくて、結婚するまで、
誰とでもダメなの」
「ああ、分かっとる。俺もそうする」
「嘘つき」
「嘘ついたりせん。結婚するまで、キスも他のこともせん」
 その後、結果的に嘘になったけど、あの時の決心は本気だった。
だけど、男子たるもの、ナニがアレだからさ、なかなか難しいのだ。
「……あのね、もう『ロックン・ロール会』出来ないの。本当は、ちゃ
んと会って言いたかったけど、電話でごめんね」
 やっぱり、あの出来事を気にしているに違いない。
「なんで?もう、絶対にあんなことはせん。約束する、絶対にせ
ん!」
 ジー、ガチャン。公衆電話の硬貨が落ちる音が、受話器越しに聞
こえた。どうやら、ルミは公衆電話から掛けてきているらしい。そう
言えば、聞こえてくる声も遠いような気がする。
 嫌な予感がしたときの僕は、胸の鼓動が早くなる。そして、大抵の
場合、その予感は的中する。
「わたし、昨日、あの家から引っ越したの。今、お母さんの実家」
「なんで?急じゃない?」
「急でもないの。なかなか言い出せなかっただけ。色々あって、お
父さんとお母さんの仲が悪くなってしまって……離婚したんだ。だ
から……」
 ルミは、それ以上何も話すことが出来ず、僕もかけるべき言葉を
失い続けた。ルミの右手に強く握り締められた緑色の受話器が震
えていることが、遠く離れた僕の持つ黒い受話器にはっきりと伝わ
ってくる。
「宮田君……急にごめんね。ありがとう。また、電話するね」
「うん」
 その日以来、ルミから連絡はなかったし、僕はルミの連絡先を知
らなかった。
 『ロックン・ロール会』も自然消滅した。ミックのいないローリング・
ストーンズが成立しないように、ルミを失った『ロックン・ロール会』が
続くはずもない。
 僕は、それまで体験してきた痛みや悲しみとは微妙に違う何かを
しばらく引きずった。世界中が冷奴になったようだった。ひんやりと
深遠な喪失感。
 それからしばらくして、僕は貯金をはたいてギターを買った。ギタ
ーとともにバンドを組み、何人かの女の子と付き合い、そのうち2人
と寝た。その後、大学へは進学せず、音楽関係の専門学校へ行っ
た。卒業してからは、楽器屋やイベント会社などを転々とし、ここ10
年間は、ローカル・エフエム局で番組制作を続けている。
あの日から25年、「片時もルミのことを忘れたことはない」というこ
とでもなかったけど、何かの拍子に思い出すことはよくあった。
 25年の間、それなりに色々なものを失った。それは、女の子だっ
たり、友人だったり、信用だったり、目標や夢だったり、父親の転勤
と共に去ったこの町の風景だったり、時には自分自身だったりもし
た。だけど、ルミがいなくなったあの日以降のような独特で得体の
知れない世界に引きずり込まれることはなかった。
一方で、1度たりとも僕の前から去ることのなかったものが、ひと
つだけある。
 ロックン・ロールだ。
ロックン・ロールだけは、いつも一緒だった。そのおかげで、現在
の仕事であるラジオ製作を任されるようになったとも言える。担当す
る音楽番組は、ちょうど10年目を迎えた。年収にして、200万円に
届かない生活は決して楽じゃないけど、なんとかやっていけている。
 そしてなによりも、ロックン・ロールだけで構成されるこの番組が、
僕を25年ぶりにこの場所へ呼んでくれたのだ。
 “ロッキン・ソファー”というタイトルの僕がナビゲートする番組に、
昨日、ルミがメールを送ってきたのだ。本名そのままで活動してい
る僕の名前を、新聞の端っこで見つけたらしい。
 ルミからのメールとは気づかずに読み始めたそれは、メールらし
からぬとても丁寧で新鮮なものだった。『前略』から始まり、時候の
挨拶へ続く。そして、25年前のことを詫び、結びの挨拶から『草々』
と締められていた。1行空けて記されたルミの名前を見たとき、僕は
瞬時にキーを打って、返信した。

25時に仕事は終わります。電話してくれませんか?
090-22**-**69

25時以降握り締め続けていた携帯電話が鳴ってからのことはよ
く覚えていない。ただ、朝になってもお互い、さようならを言おうとは
しなかった。その中で僕は、ルミが2年前に離婚したこと、あの町に
建った新しいマンションに住んでいること、そしてローリング・ストー
ンズをはじめとするロックン・ロールを聴き続けていることを知った。
お互いの部屋から見えた空があまりにきれいで、僕らはどちらから
ともなくこう言った。
「これから会おうよ。」

 さて、到着だ。現在では廃校となり、校舎が取り壊されグラウンド
だけになった僕らが通っていた小学校の校門をフルスピードで突
破した。
 想像していたよりも小柄な女性が、昔のまま残っている海沿いの
錆びたフェンスに腰掛け、運転する僕の方を向いて、小さく手を振
っていた。彼女の背後に、巨大な風力発電機群が並んでいるのが
目に入る。僕は、カー・ステレオのボリュームを最大にしてから、車
の窓を開け放った。僕らが、ロックン・ロールに出会い、夢中になっ
た頃、すでに伝説になろうとしていたこの町出身のロック・アーティ
ストが歌う。

フェンスに腰掛け 明るい空の下
考えているところ これから何をやろうかな
(#ルースターズ『Sitting On The Fence』より)

エッジのきいたギター・サウンドが海風に乗り、フェンスの向こう
へ突き抜ける。風力発電機のプロペラたちが、ぐんとスピードを上
げたように感じた。